あれから8年、石巻 <視察2日目>

「東日本大震災から8年の石巻市をめぐる ~あの時の災害ボランティアと復興のいま~」と題して実施した今回の災害ボランティア・トレーニングのスキルアップ編には、東日本大震災、東北関東豪雨、熊本地震、西日本豪雨など、各地でボランティアをした多様なメンバーが参加してくれました。プログラム初日には、参加者同士の経験を共有するプレゼンテーションの場や懇親会もありました。(レポート1日目はこちら

一夜空け、2日目の朝にまず向かったのは、新蛇田地区です。

 

■ 仮設住宅から復興住宅へ

石巻市内には、134団地7,153戸の仮設住宅が建設されました。このほかに、空きのあった民間賃貸住宅を借り上げる「みなし仮設」もありました。仮設住宅の入居期間は、「2年間」と言われて始まります。8年近くが経つ現在、石巻市でまだ100世帯近くがプレハブ型仮設住宅で生活しています。延長が繰り返されるなか、当然ながら汚れも目立ち、劣化もしています。石巻市の災害公営住宅、いわゆる「復興住宅」の建設完了・鍵の引渡しは今月で終わります。まだ自宅の修繕・新築工事を待つ世帯などが残りますが、夏ごろまでには入居者はいなくなり、市内から仮設住宅の姿がなくなる予定です。

津波で流された集落ごと同地区に入居したケースもありますが、多くは抽選で場所が割り振られるため、仮設住宅への入居時には団地内にあまり顔見知りがおらず、周辺の店舗や施設もわかりません。新しい土地に、一人もしくは家族で引越しをしたと想像してみてください。それも災害でたくさんの大切なものを失った状態での生活です。不便さや寂しさから、塞ぎがちになったり、孤独感を深めていく人もいます。PBVでは、2011年10月から仮設の集会所を利用したお茶っこやイベントの開催、134団地の一軒ずつに手渡しで届ける「仮設きずな新聞」プロジェクトを展開しました。この日、新蛇田第一集会所で案内してくれた田上琢磨さんも、長く「仮設きずな新聞」の運営を担ってくれた一人です。

2011年10月~2016年3月、全113号を発行した「仮設きずな新聞」。ボランティアが仮設住宅を一軒一軒回り、手渡しで届けた。

「仮設きずな新聞」の編集委員。右前が田上さん。中央前は、現在の「石巻復興きずな新聞」代表・岩元暁子さん。


2016年3月以降、復興住宅の入居者も配布対象に加えた「石巻復興きずな新聞」。岩元さんを中心に、すでに30号以上が発行された。

 

仮設住宅では、見守り活動やNPOによる支援だけではなく、住民自身による自治を進める取り組みもありました。「石巻仮設住宅自治連合推進会」は各仮設団地のそうした取り組みをつなぎ、サポートしてきました。仮設団地の集約や取り壊しが進むなか、復興住宅や新築・分譲住宅を含めた新しいまちづくりを支えるため、昨年から「一般社団法人石巻じちれん」として活動を始めています。なかでも田畑を埋めて土地を整備し、石巻市内最大の1,200世帯3,000人以上が新しく暮らすことになった新蛇田地区は、一からのコミュニティ形成です。

 

国は、2020年度末を目処に復興庁の廃止を決めました。復興予算を頼りに行ってきた事業やサービスも終了するものが相次ぐでしょう。それらの事業で働いてきた住民の雇用期間も終わります。復興住宅の家賃も徐々に入居者本人の負担額が増えます。この間に、新たな仕事・収入源を確保できた人ばかりではありません。将来のビジョンが描けないなか、残念ながらすでにこの地区でも悲しい出来事が起こっています。「本当に苦しいのはこれからかもしれない。だから、やるべきことはたくさんあります」。田上さんは、文字通り新しく生まれたコミュニティのなかに入って、住民一人ひとりと向き合いながら日々奔走しています。もう「仮」の住まいではありません。次の世代、その次の世代にもつながるチャレンジなんだと思います。

 

 

■ 震災から 2,920日

2日間のプログラムに同行してくれた大学生の永沼悠斗さん。石巻市大川地区の出身で、大川小学校の卒業生です。高校1年生のときに被災し、あの日、雪の降る日和山の頂上から襲ってくる津波を見ていた一人です。2年ほど前、防災・減災に取り組む若者や学生たち(JCC-DRR Youth)とともに、東北三県をめぐったときに出会った縁で、これまでもいくつかのプログラムで一緒に活動してきました。大川小学校の案内と語り部は、若者である彼にお願いしました。

到着後、まず立ち寄ったのは駐車場の一角にあるプレハブ小屋。震災前の大川地区の模型が展示されています。「山もあって、川もあって、子どもたちの声が響いていて、人と人の距離が近くて。本当に、良いところだったんです」。津波で流された現在の大川地区に建物の姿はほとんどありません。危険地域に指定されているため、この先も新たに住宅が建つことはないでしょう。見学に訪れた人はもちろん、以前この地区に暮らしていた人の記憶でさえも薄れていきます。神戸や愛知の大学生などが協力し、大川地区「記憶の街」模型復元プロジェクトが動き出したのは約2年前。ちょうど、彼と出会った頃でした。

よく見ると、模型には小さな旗が立れられています。立ち寄った大川地区の元住民が、小さな旗に自分の思い出を記し、記憶の場所に一本一本立てていきました。2年前に見たときはちらほらだった旗の数も、いまでは2,700本になりました。

大川地区「記憶の街」模型復元プロジェクトの説明をする永沼悠斗さん。

震災前に過ごした記憶が、模型に立つ小さな旗の一本一本に記されている。

 

「中庭のこの辺りでよく一輪車に乗ってました」「あの太い柱が折れているところ、海の方向に向かって倒れています。海からじゃなく、山や川の方から強い力がかかったってことだと思います」「6年生の授業で、『学校の好きな場所』の絵を描きました。中庭から見上げた校舎が好きで。背の高い木も植えてあったんです」彼が口にする大川小学校の話は、自分が通っていた頃のことと、2011年3月のことが入り混じります。悲惨さを伝える震災遺構としてだけではなく、楽しく当たり前の日常を過ごした場所を知ってほしいからです。

 

「向かって校舎の左側は1、2年生の教室。廊下を挟んだ向かい右側の2階が上級生の教室でした。2年生のとき、近所の3年生も一緒にスクールバスで通っていましたけど、学校に到着してから3年生の先輩はみんなあっちの校舎の階段をのぼっていくんです。その後ろ姿が、2年生の僕には本当に格好良く映って。3年生になったときは、僕もちょっと大人になったような気がして嬉しかったですね。2011年当時、2年生だった弟も同じようなことを思っていたのかなぁ」。

 

日和山に避難した3月11日。それからの避難所での生活。父親と自転車で大川地区に戻ってきた5日後。呆然して言葉を失った瞬間。仮設住宅から1時間かけて、自転車で通った残りの高校生活。岩手の大学に進学して挫折と孤独を経験した時間。防災と福祉を学ぶために、もう一度大学に入り直すと決めたこと。やっと、大川のことを自分らしく人に伝える言葉を見つけてからの活動。震災から8年目の3月11日は、1年間365日の1日1日を生きてきた2,920日の積み重ねなのだと教えてくれた気がします。彼だけではなく、東北被災地で暮らす人にはそれぞれの2,920日があったことを忘れないようにしたいと思いました。

 

 

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この2日間で、目にしたものはもっとたくさんあります。
一度聞いても、もう一度聞きたい話もあります。
1年後にもう一度訪れたい場所もあります。

また、石巻に行こうと思います。

 

あと、石巻には何度でも食べたくなるおいしい料理もあります!
1日目に社協の阿部さんからは、「ちゃんと買って、食べて、お金も落として行ってね」と釘を刺されました(笑)。このブログを読んでくださった皆さんの「石巻に行きたいな」を後押しできるよう、社協の会場で出迎えてくれたホワイトボードいっぱいに描かれた石巻の魅力と、「いしのまき元気市場」でのお昼ごはんの写真をお届けして、レポートの締めくくりにしたいと思います。

 

※このプログラムは、「Yahoo!基金 東日本大震災復興支援助成プログラム」の助成により実施しました。