東日本大震災から8年目を迎えるにあたり、PBVでは3月2,3日の2日間、「災害ボランティア・トレーニング(スキルアップ編)」として、石巻市内を巡りました。参加者は、この1年でPBVのボランティアや防災・減災のプログラムに参加してくれた皆さんと石巻市在住の若者たち。震災遺構を訪れ、現在も最前線で石巻を支える団体・個人から話を聞きました。今回は、プログラム初日の様子をご紹介します。
3月2日のプログラム初日。参加してくれたメンバーと。
2011年3月。1代目「がんばろう!石巻」の看板。(photo by 37 Frames photography Tracey Taylor & Dee Green)
■ 2011年3月11日
2代目「がんばろう!石巻」の看板が立つ門脇・南浜地区。約1,700世帯4,400人以上が暮らしていたこの地区に、目の前に広がる海から7mの津波がやってきました。震災後しばらくは建物が残っていた石巻市立病院も数年前に取り壊され、駅前に場所を移しました。危険地域に指定され工事が続くこの地区で、人が暮らせるのはかさ上げをした山沿いのエリアだけ。大部分は、津波復興祈念公園になる予定です。
「南浜つなぐ館」は、震災・津波の教訓と、ここに存在していた人の営みを教えてくれる施設。館内の展示を通して、2011年3月11日以前から震災直後、現在までの変化を知ることができます。市民から提供を受けた写真や遺品を預かり、ドローン撮影の映像やICTも積極的に活用した伝承施設です。
案内してくれた「みらいサポート石巻」の藤間さん。「3.11 メモリアルネットワーク」の共同代表も務める。
施設の運営を担うのは、公益社団法人「みらいサポート石巻」。2011年当時は「石巻災害復興支援協議会」(2012年11月に名称変更)として、多くの支援団体の連携づくりに奔走した団体です。石巻から全国に教訓を発信しようと、施設の管理以外にも語り部や防災まち歩きなど様々なプログラムを提供しています。2017年からは、東北各地の震災伝承施設や活動をつなぐ「3.11 メモリアルネットワーク」の事務局も担っています。
「南浜つなぐ館」から山側に目を向けると、グレーの幕に覆われた大きな建物に気づきます。震災遺構として保存されることが決まった「旧門脇小学校」です。当時、家族とともにこの小学校に避難していた高橋政樹さんが、生き残った一人の語り部として私たちに同行してくれました。
旧門脇小学校の前で。
津波だけであれば、校舎の3階や屋上で助かったかもしれません。ただ、ここは火災に見舞われました。高橋さんも、津波とともに押し寄せてくる燃えた車や倒木を見たとき、死を覚悟したそうです。学校の裏手にある日和山(ひよりやま)から、助けにきてくれた人たちがいました。校舎の2階裏の窓から山肌までの隙間は約1m。ジャンプすれば届く距離です。ただ、避難者のなかには高齢者もいます。落ちれば助かりません。奥に進むと、もう少し隙間が短い場所がありました。教室にあった教壇をはしごの代わりに。何とか届いたものの、雪が降っていて足元は滑ります。それでも20~30人がここを渡って日和山に逃れることができました。校舎のなかに避難して、たった数分の出来事。高橋さんが、このことを人に語り始めたのは去年からです。この場で起こった事実はもちろん、それを伝えることの難しさと葛藤にも想像力を持たなければと感じました。
旧門脇小学校の裏手にて。
震災後に、石巻に来た人は日和山からの景色を見た人も多いと思います。南を向けば門脇・南浜地区や旧北上川から太平洋、東から北にかけては湊地区や水産加工場がある魚町、石ノ森萬画館が建つ中瀬を一望することができます。
日和山の頂上から見る石巻市内の現在。
ここからは、PBVが石巻の避難所で最初にサポートに入った湊小学校も見えます。日和山まで同行してくれたスタッフの高橋正子さんも、湊小学校に避難していました。
「避難所での毎日も、泥の入った家の片付けも、ボランティアさんにたくさん手伝ってもらいました。本当は自分たちがやらなきゃいけなかったのかもしれません。でも、母の面倒もあったし、手続きもたくさんあってできなかった・・・。あれから、石巻はここまで前に進んできました。とっても感謝しています。私ができる恩返しは、こうやって石巻の経験やいまを伝えることなんです」。
■ 30万人の災害ボランティア
参加者が一人ひとり持ち寄った非常食を食べ比べながら昼食をとった後、石巻市社会福祉協議会復興支援課を訪れました。お話を伺ったのは、阿部由紀(よしのり)さん。2011年3月17日、石巻に到着したPBVの先遣スタッフがトラックいっぱいに積んだ毛布と水を届けるため、最初に会いに行った人です。
石巻市社会福祉協議会の阿部由紀さん。
阿部さんは、2011年以前から全国の被災地で活動していました。被災地の現場を知る社協職員として、「来る」と言われていた東日本大震災に向けて取り組んでいました。2011年だけで約30万人のボランティアが活動する拠点となった石巻専修大学との災害時の協定づくり、よそ者である外部からの支援者への抵抗感を減らすための地域住民に対する「受援力」の研修など、石巻が大規模なボランティアを受け入れることができた背景には、地域での地道な備えがありました。
石巻専修大学も見学。
たくさんのボランティアがテント持参で集まった石巻専修大学のグラウンド(2011年4月/photo by Kazushi Kataoka)。
もちろん発生したのは、想像を越えるような巨大災害。備えてきたとはいっても、次から次へと考えてもいなかったような課題が持ち込まれます。「社協の限界が、被災者支援の限界であってはならない」と、阿部さんは初めて出会ったNPOなどの支援団体にも協力を求めます。特に、長期で活動する団体には、信頼してニーズをそのまま預けてもくれました。主に個人や短期のボランティアを受け止める災害ボランティアセンターと、団体や長期ボランティアが集まる災害復興支援協議会、そして行政や関係機関による災害対策本部の動きが連動し、「石巻モデル」と呼ばれる支援体制が生まれていきました。
石巻災害復興支援協議会には、300を越えるNPO・支援団体が集まり、毎日情報共有が行われた。
阿部さんが特に大切にしていたのは、石巻が育んできた地域の文化。雄勝や牡鹿半島などの合併前の町の文化はもちろん、旧北上川を挟んだ東と西の地区だけでも違いがあるといいます。それを知るのが地元社協の強み。緊急時だからと地域文化を無視した支援が進めばその後の自主的な復興は望めないと、緊急時でも丁寧に向き合いました。大規模な外部支援者の活動から息の長い生活・福祉支援へとフェーズが変わったいま、その一つひとつに意味があったことを実感させられます。
そして先日、また宮城県沖での地震発生の想定が発表されました。震災後の復興を目指す石巻としてだけではなく、次の災害に備えるべき石巻を見据えた地域づくりが始まっていました。
(2日目に続く)
※このプログラムは、「Yahoo!基金 東日本大震災復興支援助成プログラム」の助成により実施しました。