支援物資の泥かき用、土嚢袋を運ぶ小林深吾
Q:
その後、石巻では社会福祉協議会(以下、社協)が、ほか被災地に先駆けて災害ボランティアセンターが県外からの個人ボランティアの受け入れを開始、団体ボランティアの調整機能としての「NPO/NGO連絡会」が「石巻災害復興支援協議会」(以下、協議会)へと改名し連携を深めています。社協=個人ボランティア、協議会=団体ボランティアという明確な役割分担は、新しい災害ボランティアの受け入れシステムとして、「石巻モデル」とも言われています。被害や都市の規模が大きく、作業量が格段に多かったということを考慮しても、石巻のボランティア受け入れは成功した、と言って良いと思うのですが?
A:
個人的には、まだボランティアがやるべき活動が残っている現状で、成功とか失敗とか言える段階じゃないと思っています。でも、ほかの被災地域での現状を聞くと、石巻でやっていることはユニークで、各支援団体が風通しのいい情報交換を行えているとは感じています。石巻市は、もともと石巻専修大学を拠点とした災害ボランティア受け入れ計画を持っていたことをはじめ、この状況に耐えうる社協や協議会会長の伊藤さんの存在など、このモデルを支える下地がありました。もちろん僕や山本も現場の調整に走り回りましたが、こういった地元の土台がなければ実現しなかった体制かもしれません。やっぱり、災害が発生した時、事前にちゃんと想定をしておく、研修を受けた人材がいるなど、平常時の備えによって違いが出てくると思います。
Q:
協議会が動き出してからの小林さんの動きについて、もう少し教えてください。
A:
4月~5月はとにかく炊き出しの調整でした。自衛隊が大きな避難所を中心に約8,000食、協議会は多い時期毎日10,000~20,000食分を預かっていました。ピースボートでもキッチンで1,000~2,000食を作ってデリバリーしていましたが、多くの他団体は日帰りの飛び込み炊き出しなので、場所やスケジュールのパズルをしていました。同時に、まだ把握できていない被災地域の掘り起しも進めていました。ゴールデンウィークを越えると、ボランティアの人数が減るのと並んで、飛び込みの炊き出し希望も激減していきました。協議会で炊き出しを預かる立場としては、正直キツい時期でした。で、とにかく安定的に食料支援を行う為にはピースボートで作る食数を増やすことも同時に必要だと思ったので、「セントラル・キッチン」の準備に取り掛かりました。
それから、協議会が石巻での支援活動の一翼を担うようになると、市の災害対策本部の会議にも出席するようになりました。そして食料支援や物資に関しては、毎週一回、市役所と自衛隊との調整会議を持つようになりました。その中で、自衛隊との物資配布会を行ったり、一斉清掃活動などのプロジェクトも生まれていきました。とにかく「1日も早い復興のために」という共通の目的の中で、行政も民間も協力した支援の輪がつながっていったんだと思います。
Q:
石巻に行くと、地元の方も一緒に汗を流したり、お互いが元気に挨拶している姿を、あちこちで見かけます。震災直後の「ボランティアが迷惑をかけるかも」といった不安が広がっていたのが嘘だったように感じます。小林さん自身の体験の中で、印象に残っていることなどありますか?
A:
もちろん辛いことも多いですが、嬉しかったり逆に勇気付けられたことも数え切れないぐらいあります。例えば、中央町で行ったギタリスト・押尾コータローさんのライブ。あのギターは凄いですよ、ほんと。押尾さんのライブを繋げていた頂いたのは、山本シュウさんというラジオDJされている方です。シュウさんは、震災直後から仲間たちと一緒に被災地にラジオや学用品などを届ける「ラジオバトン・プロジェクト」行っています。自称「男の顔をしたただのお節介なおばちゃん」と言うだけに、何度も何度も石巻駆けつけて下さっています(笑)。
シュウさんからお話を頂いて、押尾さんのライブが実現したのが確か6月10日だったと思いますが、「かめ七」というセントラル・キッチンから徒歩2分の呉服屋さんで、押尾さんにギター弾き語りライブをやっていただきました。この「かめ七」も、津波で1階部分はヘドロだらけでした。とにかく店内だけでもきれいにしようと、とピースボートのボランティア達が泥かきをしたお店です。
ダメになってしまった商品もありましたが、洗ってきれいに甦ったものもたくさんあります。「かめ七」のご主人とも仲良くなり、ライブの会場として快く店内を貸していただけました。当日は、町内の方に声をかけ、ボランティアも一緒になって演奏を楽しみました。実は、「かめ七」さんの泥だしをしたボランティアの一人が、X-JAPANのSUGIZOさんで当日もライブに駆けつけ下さいました。これには、「かめ七」さんのご主人もびっくりされていました。
ライブはアットホームで、家族みたいな感じでした。団体間では、色んな垣根を越えて一緒にやろう!と言ってきた僕ですが、いつの間にか地元の方との距離感が無くなっていたことにも気付きました。そして、有名・無名に関わらず多様な支援の輪が地元の人たちと共に、繋がった瞬間でした。
他にもたくさんのエピソードがあるのですが、また次回にしますね。
Q:
最後に、今後に向けての課題や意気込みを教えてください。
A:
実は、先日、協議会の会長さんと一緒に、豪雨の影響で浸水などの被害を受けた新潟の三条市に物資を持って行きました。その後、協議会に参加している団体が、福島へ調査に入りました。被害大きく高齢者率の高い金山町から、ボランティアセンターの立ち上げと泥だしや清掃にボランティアが必要という要請が届き、協議会のいくつかの団体が応援に向かいました。昨日、ピースボートでもボランティア25人ほどが金山町で活動してきました。石巻の方々の中にも、「次に別のところで災害が起こったら自分たちが手伝いに行くから」という言葉をよく耳にします。災害に強い社会というのは、いつでも助け合う気持ちとその備えや繋がりを持った仕組みがしっかりできている社会だと思うんです。それは、自分が暮らす自治体や住民、団体などが一緒になって考えないといけないのだと思います。
今回、石巻で起こった震災は言葉に出来ない程の悲しみや苦しみを生みました。僕は被災の当事者ではないので、その想いは推し量ることしかできませんが・・・。でも、石巻でのそれぞれの体験や経験は、これから繋がりを持った災害に強い社会を創る為に必要になってくるのだと思います。石巻の現場を抱えながらなので、もうちょっと先の目標ですけど、僕一人じゃなく、ピースボートの仲間も、5,000人にも上るボランティアも、石巻の「家族」もいますからね。
「誰かがやってくれる」じゃなく、全員が「自分がやる」という気持ちがあれば、何とかなるでしょ。まあ、新婚なので、見放されないように自分の家族も大事にしながらやっていかなきゃなんですけど(笑)
photo : Yoshinori Ueno
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