震災から5ヶ月、ボランティアコーディネーターが語る (前半)

3月17日、ほか3人のスタッフとともに石巻に入った小林深吾(30)。この5ヶ月間、行政と民間団体ごとの垣根を越えた「支援の輪」をつくるため、日々奔走しました。「石巻災害復興支援協議会」の立ち上げに携わり、ボランティア団体同士や社会福祉協議会(以下、社協)・市役所・自衛隊との現場調整役として活動してきた小林にインタビューしました。

 

Q:
石巻では、昨日も警察による行方不明者の捜索が行われました。あの日から5ヶ月が経つ中、いまだ900名近くが行方不明のままです。石巻は、今回の震災の最大の被災地の一つになってしまったわけですが、現地に入った直後の様子から教えてください。

A:
僕が東京を出発したのは、3月16日でした。情報が錯綜していて、東北の被災地に向かおうにも、どの道が通れるのかすら分からない中でした。僕と上野の2人が新潟経由で先発で出発し、山本と上島の2人は追加の物資を積んで4号線を走りました。実は行先もはっきりは決めてなくて。夜になって、石巻にほとんど物資が届いていないという情報が入り、とにかく向かってみることになりました。後日僕たちの方が遅れて現場に入り、石巻市役所の前で後発の2人とも合流しました。


まず必要だと思ったのは、被災者の方が今日を生きられるように物資を届けること。もちろん物資の量自体が足りているわけではありませんでしたが、もっと足りなかったのは人手。地元行政や自衛隊がいち早く動いてはいましたが、どうしても大きな避難所などに限られてしまいます。大事なのは、そこからもっと末端の被災者一人ひとりに渡したり、小さな避難所や在宅避難者の方々のニーズを把握し動くことでした。

 

Q:
当初、ピースボートの他に支援に入っていた団体はどのくらいありましたか?

A:
自衛隊や消防、警察、赤十字などの人命救助の専門職以外は、本当に数えるほどしかありませんでした。3月20日に、石巻専修大学で「第1回NPO/NPO支援連絡会」(石巻災害復興支援協議会の前身)を行いましたが、その時参加したのは確か10団体ほどでした。物資配布の活動ひとつにしても、地元の物流システムが機能しない中、倉庫に物が届いてもそこから先に配る車も人手もない、そんな状況でした。ピースボートがやるべきことは、その人手、つまりボランティアを1人でも多く集めて作業に加わってもらうこと、そして団体問わず救援に来てくれる団体を増やすことだと思いました。そして、石巻の支援活動を行っているそれぞれの組織が連携を深める事が非常に重要だと感じました。

 

Q:
その後、ピースボートでボランティアの募集を開始。3月21日に準備隊として追加で7人が合流し、26日に第一次ボランティア約50名が石巻に入りました。その辺りでの動きを教えてください。

A:
他のスタッフが炊き出しから清掃、物資の運搬などを行いながら、ボランティアの受入れ体制を整えていきました。一方で、僕は石巻市社協が石巻専修大学に開設した災害ボランティアセンターのサポートに入りました。社協の職員さん達が災害ボランティアセンターの運営を軌道に乗せる為、混乱した状況の中で必死でお仕事されていました。阪神淡路大震災以降、個人ボランティアは、社協が災害ボランティアセンターを立ち上げ窓口になる、というのが流れができました。ただ、今回の震災では、社協の建物も津波で被害を受け、職員の方も多くが被災していました。人手が全く足りない状況でした。ピースボートとしては僕が災害ボランティアセンターに常駐してお手伝いする事にしました。

とにかく、来訪者が多かったです。支援団体・個人、メディア関係者、被災された方などなど、情報を求めて朝から晩まで災害ボランティアセンターにやってきました。そして、第3回目の「NPO/NGO支援連絡会」にて僕が代表番号(携帯)を持つことが決まったのですが、「炊出しに行きたいんですがどこの避難所で必要?」「ボランティアに参加したいけど、交通手段は?」「現地の状況を教えてください」といった電話が、早朝から深夜まで鳴りっぱなしでした。

数日経っても、この状態が治まる気配がなく、このままでは社協のボランティア受付がスタートできず、ボランティアが来たくても来れない状況が続くと思いました。そこで、現地での支援の重要度も高く、支援団体からの問い合わせも一番多かった炊き出しの希望については、僕が集約して調整と段取りを行うことにしたのです。

飛び込みの支援団体の窓口を行いながら、電話の対応、そして急激に要請が増えた炊出し調整とを同時に行っていました。「NPO/NGO支援連絡会」の議長や書記もやりましたが、もう手いっぱいでしたね。

Q:
確か、当時は社協の代表番号の横に、「炊き出し調整はコチラ」と小林くんの名前が出てましたね?

A:
はい。まったくそんなこと考えてる余裕はなかったですね。当時はまだ被災や避難者の全体像がまだ見えていませんでした。現場に入っている各団体から、「ここに何人の避難者がいる」「ここにはまだ食事が届いていない」といたような情報を必死で集めました。一方で、炊き出しを希望してくる団体に、現場はまだ混乱しているので臨機応変に対応して欲しい事、必ず自己完結で他人の手を煩わせない事を伝えた後に避難者の大まかな人数や場所をお知らせして送り出していました。

現場に入ってみて本当に実感しましたが、「誰かがやってくれる」「本来誰々のやることだ」なんて考えは、被災地では通用しません。役割分担はもちろん必要ですが、全員が「自分がやる」というぐらいの責任感を持って動かないと物事は何も進みません。でも、逆にその責任をちゃんと負うことで、地元からも信頼してもらえたと思っています。

photo:Yoshinori Ueno

(後半へつづく)