能登半島地震発生後から、1年4ヶ月に渡って支援現場の最前線に身を置き続けた「野原こころ」さん。
彼女はなぜ災害支援に関わるようになったのか?そして実際の支援活動はどのようなものだったのか?をご紹介します。

(野原こころさん:輪島市の避難所にて)
【聞き手:PBVスタッフ多賀】
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人生を変えた修学旅行
野原さんは、生まれも育ちも長崎県長崎市。街並みも、豊かな自然もすぐに手が届くといった環境で幼少期を過ごし、県内の高校へ。進学校だったということもあり、修学旅行先は海外。ベトナムでした。
「日本との環境の差に衝撃を受けました。貧困だったり社会的な格差だったり。目の前に広がる光景にとにかく感情が揺さぶられたことを覚えています。そこからですね、社会問題だったり海外に強く興味を持ちました」
社会への関心が高まっていた頃、西日本豪雨(2018年)が発生。高校の同級生(男性)がボランティアに行ったと聞き「私も行きたい!」と現地団体に連絡するも、断られてしまったそう。
「女性1人ということや、トイレなどの環境が整っていないことなどが理由でした。勝手に行くのも迷惑をかけてしまいますし、ひとまずボランティア活動はあきらめることにしました」
災害支援(社会問題)を実際に体験することは叶いませんでした。しかし、興味関心が無くなることはなく、同時に海外への想いも強くなる一方でした。そのため同世代の多くが大学へ進む中、野原さんは別の道を選ぶことになります。
それが「世界一周の船旅」でした。
目標を叶えるための日々

(ピースボートセンターふくおかにて:前列右)
街中でよく見かける「ピースボート 世界一周の船旅」のポスター。野原さんもポスターを見たひとりでした。見つけた当初は「なんか怪しいからやめておきなさい」と、両親に反対されたそう。しかし、資料を取り寄せてみると想像以上にちゃんとしたパンフレットが手元に届きます。そこには「学び」や「交流」など、「観光」だけじゃない、まさに自分が求めているものが詰め込まれていたのです。
「私、絶対に乗る!」
と、覚悟を決め、ピースボートセンターがある福岡へ。シェアハウスに住みながら、およそ2年10ヶ月。週の半分をバイト、もう半分をピースボートのボランティアスタッフとして活動を続けた結果・・・、旅費を貯めることに成功します。
「ちょうどコロナ禍で『船が出るかも!いや、やっぱり出ないかも!』みたいな難しい時期だったので、モチベーションは上がったり下がったりでしたね。でも始めたからには途中で諦められないので、コツコツ頑張りました」
2023年、遂に船に乗り込み世界への1歩を踏み出しました。
世界を見て気づいた“人の思い”

(カンボジアの学校にて)
船旅では、世界各地の歴史的な場所を訪ね、さまざまな人と交流を重ねました。その中でも特に印象に残っているのが、カンボジアの地雷原を訪れたときのことです。
「戦時中に埋められた地雷の撤去作業には、常に命の危険が伴います。一歩間違えば・・・という緊張感のなかで作業にあたる方のお話を伺い、その大変さを実感しました。
その後、地雷が撤去された場所に建てられた小学校を訪れました。出会った子どもたちの笑顔が本当にすてきで、あれほど心があたたかくなる経験はなかなかありませんでした。
ただ、子どもたちの家の周りには、いまも危険な場所が多いそうです。だからこそ、地雷を気にせず走ったり跳んだりできる学校は、子どもたちにとって本当に安心できる場所なのだと感じました。
あの笑顔の裏には、まだ“安心できない場所”があるという現実もありました。
現地では多くの人の声を聞かせてもらいました。その中で感じたのは、自分の常識や価値観がすべて正しいわけではなく、その土地で暮らす人にしかわからない感情や考え方があるということ。それを尊重することの大切さを学びました」
こうして世界を巡る中で多様な価値観に触れ、「人の考えを尊重しながら行動する力」を養っていきました。

(カンボジアの地雷撤去活動を視察する野原さん)
災害支援の現場、輪島市へ
船旅も終盤に差し掛かったころ、PBVスタッフが船に合流。PBVスタッフは、2024年1月に発生した「能登半島地震活動報告」や「災害支援とは?」「ボランティアで参加するには?」など、災害支援や防災減災の取り組みに関する講座を実施しました。
「やっぱり社会への関心もずっとあったので、すべての講座に参加しました。話を聞いていると、私でも災害支援に携われるかもしれない。自分にできる形で人の役に立ちたいという思いが強くなってきたことを覚えています」
船旅を終え帰国した彼女。予定は未定でしたが、すぐに仕事を得ることに。それがPBVスタッフでした。ちょうど能登で現地スタッフを探している時期だったこと、そして彼女とともに乗船していたピースボートスタッフたちからの人柄のお墨付きもあり、トントン拍子で採用が決定。
「正直、すべてが初めてだったのでとっても緊張しながら飛行機に乗って、小松へ。そして地震で荒れている道路を走って輪島市へ向かったことを覚えています」
野原さんは石川県輪島市に到着。
2024年5月、発災から4ヶ月が経ったころでした。
多くの時間を過ごした避難所

(避難所の野原さん:後列右から2番目)
PBVの現地スタッフとして輪島市に到着した彼女の役割は、避難所の運営支援でした。
「赤の他人がいきなり避難所に来たんですから。皆さんも少し身構えるというか、どんな人なんだろう?という雰囲気を感じましたね。
なので、とにかく挨拶を心がけました。毎日、おはようございます、いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい・・・と声をかけ続けているうちに、徐々に避難している皆さんから様々な声を届けていただくようになりました。
会話自体はとっても楽しかったのですが、難しかったこともありましたね。お伝えいただいた希望を1から100までお手伝いしない方がいい場合もあるからです。
それは、希望をすべて叶える『支援』ではなく自立を目指す『支援』ということです。とはいえ頭ではわかっていても手を出しすぎてしまったり・・・。その辺りのバランスが難しかったですね」
物資の配布や避難所の環境改善と同時に、彼女が大切にしていた“日常の会話”。髪を切った? 元気ない? あれ、いつもより食べる量少なくない?・・・など、小さな変化に気づき、声をかけること。こうした日々の積み重ねをなにより大事にすることで、皆さんとの距離が縮まっていきました。

(日課となっていたトイレ掃除に向かう野原さん:左)
一見小さく見える行動も、大事な支援
活動を通して彼女が学んだのは「誰かのそばにいる力=寄り沿う力」の大切さでした。
大規模な支援はもちろん大事。でも、日常を支え、安心を提供する、一見小さく見える行動も、被災地ではとても大事な支援になります。
「ご飯を一緒に食べて笑える。それだけでも、復興の一歩になるんです。そしてそんな環境をつくるために、支援をお寄せいただいている方々の存在をとっても心強く思っています。
支援を検討されている方には、”あなたの力は決して微力じゃない”とお伝えしたいです。
ボランティアで来られた方からは『少ない日数しか携われなくて・・・』、募金箱に寄付いただいた方からは『少額しか募金できなくて・・・』など、“少し”ということを気にされている印象を受けました。
でも、その人が“少し”と感じても、ボランティアや寄付していただく側は、すごくその行為に対して感謝とか勇気とかもう一度前を向こうという気持ちになれるんです。なので、本当に1人ひとりの力が大事なんだということを改めてお伝えしたいです」
野原こころさんのインタビューを最後までご覧いただき、ありがとうございました。
能登半島地震の被災地で避難所運営を支えながら、「寄り沿う力」を大切に活動してきた野原さんの経験から、私たちも多くの学びを得ることができました。世界一周の船旅で培った経験を糧に、一人ひとりの声に耳を傾け、日常の安心を支える姿勢は、同じチームの仲間として大きな勇気をもらえるものです。
PBVでは10月31日まで「災害支援サポーターキャンペーン2025」を実施中です。
このキャンペーンでは、新たに50名の災害支援サポーターを募集しています。すでにご支援いただいている皆さまには、可能であればご支援額の増額や、ご友人・知人へのご紹介など、さらなるご協力をお願いしています。
野原さんが話していた通り、支えてくれる方がいるからこそ、支援活動は前に進むことができます。皆さんの行動や寄付が、確かに現地の方々の安心や笑顔につながっています。
ぜひこの機会に、災害支援サポーターへのお申込みをご検討ください。
執筆
公益社団法人ピースボート災害支援センター
広報・ファンドレイジング担当
多賀 秀行/島 彰宏

