災害の現場で、被災された方々のそばに立ち続ける人がいます。
PBV(ピースボート災害支援センター)のスタッフ、山脇歩子さんです。
鹿児島の自然豊かな町で育ち、「一歩一歩」の想いの想いが込められた名前を持つ彼女は、熊本地震をきっかけに災害支援の道へ。以来、全国各地の避難所で、被災者一人ひとりの生活や心に寄り添いながら、支援の現場で尽力し、現在は能登・輪島で支援調整の業務を担っています。
この記事では、山脇さんのPBVとの出会い、能登半島地震をはじめとした様々な被災地での経験、そして現在の活動への想いまで、彼女自身の言葉で語っていただきました。
(聞き手:PBVスタッフ島)
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島:山脇さん、お疲れ様です。ご無沙汰しています。
山脇:ご無沙汰しています。
島:お元気ですか?
山脇:はい、バリバリ元気です!
島:よかったです。今日は、山脇さんの活動や想いをお聞きできればと思います。よろしくお願いいたします!
山脇:わかりました。よろしくお願いいたします!
自己紹介
島:まず自己紹介をお願いします。
山脇:山脇歩子です。以前活動していた東北・石巻では「ぽこ」とも呼ばれていました。歩く子と書いて「あゆこ」なんですが、そこから「ぽこ」と名付けてもらい、スペイン語で「少しずつ」の意味もあるらしいです。
自分の名前、あゆこも、一歩一歩自分の足でいろんなところに行けたりとかするようにってつけてもらったところから、なんかすごい似てるし、しっくりくると思って、まさに自分の活動にぴったりだなと思っています。
現在活動している輪島では、ニックネームが変わって、「あゆポ(歩歩)」って呼ばれているんですが、こっちも一歩一歩感があって、うれしいです。
島:めちゃくちゃ素敵ですね。そんな山脇さんのご出身は?
山脇:鹿児島の南九州市です。お茶やさつまいもが有名で、漁師町でありながら、農家の方も多くいて、山と海が見渡せる静かでのんびりした場所で育ちました。温泉も多く、自然の中で育ちました。
PBVとの出会い、災害支援へのきっかけ
島:PBVに関わったきっかけは?
山脇:2016年の熊本地震が最初です。小さい頃から海外に行きたいと思っていて、2016年当時、世界を旅するピースボートの船に乗る準備をしていましたが、その直前に地震が起きました。
その時にピースボートが福岡で募金活動するとのことだったので、ボランティアとして、参加したのが最初の関わりです。熊本から福岡に避難してきたおばあちゃんが涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれたことが、初めて災害支援する実感を持ちました。
そして、その流れで、熊本の避難所運営のサポートをしにいくことになりました。
(福岡で募金活動をする山脇:一番左)
島:現場に入るのは初めてだったんですよね。
山脇:はい。避難所での活動も初めてで、最初は何をしていいのかわからなかったです。でも、先輩たちの活動を見て学びました。物資の配布、トイレ掃除、並ばれる方の案内など、少しずつ覚えていきました。
最初は「1か月だけ」と決めていたんですが、避難所の運営や住民の方々の状況を知るうちに、離れがたくなっていきました。一緒に過ごす中での楽しさやもどかしさ、制度の壁や体調を崩す人を見て、「今は離れちゃいけない」と思うようになり、結果、ピースボートの船が出発する直前までの3カ月ほどいることになりました。
島:ピースボートの旅が終わったあとは、どうされたんですか?
山脇:石巻のピースボートセンターで2年ほど活動していました。そこからは、2018年の西日本豪雨や、2019年の福島・いわきでの台風被害、2020年の熊本豪雨、2023年の秋田豪雨など、災害があるたびに、避難所運営を中心に災害支援に携わってきました。
島:ほんとすごいですよね。災害支援において、それだけ経験を持っていて、様々な場所で活動されてきたことは、PBVにとっても、とても貴重な存在だと思いますし、災害支援において欠かせない人材だなと感じます。
2024年能登半島地震での緊急対応
島:そして、今は能登・輪島で活動されていますが、いろんな場所で活動を経験する中で起きた2024年の能登半島地震だったんですね。
山脇:はい。私、元旦登山に行くんです。 実家がある鹿児島で登山して、大晦日の真っ暗な中上がって、拝んで降りてくるっていうのが定番だったんですけど、今年は何もありませんようにって初日の出に、神社に拝んで、帰ってきたのが夕方の四時だったんですよね。
で、テレビつけたら、たいへんなことが起きて、これはあるかもしれないと思って、荷物まとめとこうかなって思ってたら、本当にPBVからメッセージがきて、行ける人は? っていうので。
島:そうなりますよね……
山脇:ちょうど佐賀でFOOBOUR(フーバー/移動式キッチンカー)が始まったところだったので、佐賀から能登にFOOBOURを運ぶってなって、二日の朝、鹿児島出て、お昼過ぎに佐賀着いて。すぐさま、佐賀の他の団体さんにも協力してもらって、一緒に必要な荷物を車に積み込んで。
そして、大阪までフェリーでいって、そこから能登に向かうんですが、近づくにつれて、道がガタガタで、すごい渋滞で……
島:まさに緊急支援ですね……。すごい経験です。
山脇:運転の自信がつきました(笑)
(フェリーに乗り込むFOOBOUR)
悔しさも喜びも、避難所で学んだ支援のかたち
島:様々な被災地で活動されて、今は能登で支援調整の業務を担っている山脇さんですが、元々人と関わることは得意だったんですか?
山脇:いえ、人見知りで苦手でした。人前で何かをするっていうのもできない。 できないというか避けてきたっていうところでもあったんです。
ただ、避難所は、特殊な場所というか、もちろんたいへんな状況の方々が過ごされる場所なんですが、自然と人と関わる場面が多く、そして避難されている方々にいかに楽しく過ごしてもらうかの環境づくりをする場所なんです。
いろんな支援団体が入るおかげなんですが、炊き出しやイベント、音楽やマジックショーなども実施されるんです。避難所だからしちゃだめではなく、どんなチャレンジしようかと考えられる場所でもあります。
島:なるほど、避難所の見方が変わりますね。
山脇:あと、いろんな避難所がそうなんですが、住民の方々がすごく受け入れてくださって、すごく楽しかったんですよね。 避難所なのに楽しいっていうのが自分でもわからないんですけど、皆さんに会えるのが楽しみになるんです。
だからこそ、避難している人たちの生活をより良くするためには、気持ちを上げるためには、何ができるだろうって、考え続けることができたんだと思います。
島:そんな避難所での活動の中で印象に残っていることはありますか。
山脇:一番印象に残っているのは、2024年9月の輪島での豪雨です。避難所での対応の中で、どうしても受け入れができなかった方がいて、それがすごく悔しかったんです。
ワンちゃんも一緒に避難してきた方だったんですが、環境が整わず、そのタイミングでは、一緒に避難してもらうことができませんでした。その後すぐに改善して、受け入れ体制を整えたんですが、その方は違うところへ行かれたあとで。。
「誰でもいいから入って」と言えなかった自分への苛立ちや、余裕のなさへの悔しさが今でも残っています。
島:緊急対応の中でいろんな配慮をするって簡単じゃないですよね。
山脇:あとは、いわきでの活動中に避難所で生活されていた方で亡くなられた方がいらっしゃったんですね。あの時は本当に悔しかったです。「どうして気づけなかったんだろう」と何度も思いました。
体調を崩している人が多いのはわかっていて、「病院に行ってね」「薬は飲んだ?」と声をかけていたのに、それでも間に合わなかった。あの出来事は今でも心に残っています。
だからこそ、避難所のあり方を自分自身も見つめ直さなければと思いました。暗くてつらい場所だけではなく、少しでも明るく温かい雰囲気を保てる避難所であってほしい。避難所は、せっかく助かった命を守り続ける場所です。人も、ペットも、みんなが安心して過ごせる場所でありたいと思っています。
今、能登での活動への想い
島:山脇さんは、今は支援調整の業務を能登・輪島でされていますが、今の活動への想いを聞かせてください。
山脇:私自身、支援調整の仕事に本格的に関わるのは初めてで、最初は本当にわからないことばかりでした。支援団体をどうつなぐか、どこに届けるか――そうした調整の連続で。 でも、輪島で暮らす住民の方たちが少しでも楽しい時間を過ごせたり、それをきっかけに仮設住宅の部屋から外に出たり、人とつながるきっかけになったらいいなと思って活動しています。とても大切な役割だと感じています。
発災後間もない頃の支援調整は、本当に大変だったようで、市役所にかかってくる問い合わせの電話も鳴り止まないような状況でした。
市役所の職員の皆さんの業務量を少しでも減らしたいという想いで、PBVのスタッフがサポートに入っていたのですが、「切ったら鳴る、切ったら鳴る」という状態だったと聞いています。
当時から関わってきたスタッフたちが、その膨大な問い合わせを受け止めていたのは本当にすごいことだと思います。
当時は断水や停電もあり、「どこで炊き出しをする?」「ゴミはどうする?」といった課題が次々と出てくる中で、支援団体や地元の人たちとの調整を重ねてきました。 そうした積み重ねの結果、今では支援団体や地元の飲食店、住民のみなさんとのつながりがしっかり根づいていて、その厚みを感じます。
住民の方が「楽しかった」「新しい出会いがあった」と話してくださると、本当に嬉しくなります。「つないでよかった」と心から思います。課題はまだ多いですが、それでもこの分野での支援には確かな意味があると感じています。
最後に
島:最後にPBVを応援いただく皆さんへの想いを聞かせてください。
山脇:実際に自分がここにいられるということは、誰かのバックアップがあってこそなんですよね。
現場で活動できる空気や環境をつくってくれているのは、ご支援があるから。もしそれがなかったら、活動は止まってしまいます。それくらい大きな支えだと感じています。
それを実感するのは、たとえばFacebookの投稿に「いいね」やコメントをいただいたときです。
見てくれている人がいる、関心を持ってくれている人がいる——それがうれしいんです。
また、寄付額が増えていたり、支援者の数が増えているという報告を見ると、「応援してくれている方がいる」「私たちに託してくれている」と感じて、本当にありがたく思います。
能登もそうですが、震災って、時間が経つとどうしても忘れられていきます。
それでも、関心を持ち続けてくれている人がいるとわかるのは、いいねや寄付の数を見るときなんです。
それが確かに大きな支えになっています。
万が一活動資金が途絶えるかもしれないってなると、不安を感じますよね。
だからこそ、「災害支援サポーター」のように毎月ご支援いただける仕組みは、活動を続ける安心をちゃんと担保してくれる、大切な存在だと思います。
いつもいつも心からの感謝でいっぱいです。
島:素敵なメッセージをありがとうございます。たくさんの応援は、本当に力になりますよね。
今日は貴重なお話をありがとうございました。これからも能登での活動をよろしくお願いします。
山脇:ありがとうございました!
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PBVスタッフ山脇歩子のインタビューを、最後までご覧いただきありがとうございました。
被災された方々へ寄り添い続ける山脇の想いを改めて聞くことができ、同じスタッフとして、心強さを感じています。
現在、PBVでは、「災害支援サポーターキャンペーン2025」を実施しています。
このキャンペーンでは、災害支援サポーターの仲間になってくださる方を新たに50名を募集しています。また現在「災害支援サポーター」としてご支援いただいている皆さまに、もし可能であればご支援額を少し増やしていただいたり、ご友人・知人へご紹介いただいたりと、さらに一歩踏み込んだご協力を呼びかけています。
山脇が話していた通り、災害支援サポーターのご支援は、活動を安心して継続するための大きな支えとなっております。
ぜひこの機会に、災害支援サポーターのお申込みをどうぞよろしくお願いいたします。
執筆
公益社団法人ピースボート災害支援センター
広報・ファンドレイジング担当
島 彰宏