第三章 ボランティアとの出会い その2
石巻地方には、数多くのNPO・NGO・ボランティア団体、そして個人のボランティアさんが、支援活動に来て下さいました。
とりわけ自分は、ピースボートさんの送迎バスを運転していた事もあり、多くの活動をピースボートと共に執り行いました。
そこには様々な形で、ボランティアと被災者との間に “熱き想い” が繰り広げられました。
そんな中での一コマに、自分が第6陣沼津組、総勢120名の皆さんを、女川に連れて行った事が上げられます。
ゴールデンウィーク当時の女川は、道路こそ枝線に到るまで、なんとか復旧しておりましたが、まだまだ自分が見た時と、同じような光景が広がっていました。
自分が女川の光景を見たのは、発災から13日目で、当時は自衛隊さんが不眠不休で、生活道路を確保してくれた直後でした。
女川の入り口には、津波の被害を逃れた浦宿地区があり、その浦宿から緩やかな坂道を登り切ると、状況は一変していたのでございます。
その地点から、海など見えるはずもないのに・・・、眼下に広がる海を見て愕然としてしまいました。 茫然と立ち尽くす自分が、目の当たりにしたのは、電信柱に紙のように絡まった車と、4階建てのビルの屋上に、逆さまに刺さった車、そして今でも残る横倒しとなったビルでした。
そして何より、自分の心に突き刺さったのは、幼い子供を背中に背負い、素足にサンダル履きのまま手袋もせず、手足を血に染め、力の限りに瓦礫をどかし、狂ったように子の名を叫び、我が子を探す若き母親の姿でございます・・・!
その日の女川の街に漂っていたのは、魚の腐敗した臭いと漏れた油の臭い、そして家屋の焼け焦げた臭いと、人の腐敗臭でありました・・・!
その状況下を、どうしても沼津組の皆さんに見て頂き、津波災害の恐ろしさと酷さを、知って欲しいと思い、ピースボートにお願いして許可を頂き(バスから絶対に人を降ろさない事を条件に)、送迎バスにて女川に向かったのでございます。
町立病院の駐車場にバスを停め、自分が眼にした女川の状況を説明すると各々は、余りの惨劇に声も出せず、涙を流すばかりでした。
そして信じられない光景を、精一杯眼に焼き付けようとしていたのでございます。
すると、バスに近付いて来る1人のおじさんがおりました。
そのおじさんは咄嗟に、バスの横を叩きながら、こう叫んだのです。
「いいかお前ら!今の女川は、こんなにひどい状況になっているけど、必ず建物をいっぱい建てて、復活して見せるからな!」「その時は必ずまた見に来るんだぞ!」と、地元の強い訛りで、いかにも怒っているかの如くに訴えて来ました。
すると、その剣幕にバスの中は “しぃ~ん” と静まり返り、「萬ちゃん!なんて怒られたの?」と、みんな怯える始末。
自分が涙しながらおじさんの言葉を説明すると、バスの中は一気に歓声の渦へと変わって行きました。
きっとそのおじさんは、バスの側面に掲げてあった、”緊急支援災害ボランティア” の横断幕に、感謝したかったのでしょう!
そのボランティアと書かれている多くの人々に・・・!
その時期に、”必ず復活して見せる” と言ってくれたおじさんの心意気を、沼津組の皆さんも、きっと感じてくれた事と思います。
その後自分は、ドイツから来た特殊車両の運転に従事し、主に被害が大きかった漁村地区で、ボランティアの皆さんと共に、活動を展開して行きました。
その漁村地区では、発災から3ヶ月の時が過ぎていても、何の代わり映えもなく、漁師さんたちは、只漠然と毎日を過ごしている様子に、見受けられました。
そしてほとんどの漁師さんは、もう漁師は出来ないと、諦めておりました。
そんな漁師さんたちに、ボランティア団体の人々は、一緒に頑張りましょうと、励ましてはいたのですが、漁師さんの口から出た言葉は、「お前たち頑張れ頑張れと言うけれど、俺たち何を頑張ればいいのや?」「船も、家も、車も、ましてや家族まで喪っているんだぞ!」「それをどう頑張れと言うのや!」「いくら頑張っても、どうする事も出来ない!」そう罵られるばかりでございました。
漁師さんたちは、漁師を諦めると言う絶望の淵に立たされて、途方に暮れていたのでございます。
そんな状況のある日の事。
とある漁師さんから、漁具を回収して下さいとの依頼がありました。
その内容は、津波で湾内に流された家屋や車、そして沖に掛けてあった、養殖施設などのを、サルベージ船が浚渫し、物揚げ岸壁に仮り置きした瓦礫の中から、自分の屋号が書いてある浮き樽などを、見たくないので早急に回収して欲しい!との事でした。
直ぐ様ボランティア団体は、多くのボランティアを集め、圧倒的な人の力・・・、いわゆる “マンパワー” にて、浮き樽はじめ、他の漁具を回収して行ったのでございます。
夏空の炎天下の中、浮き樽に付着した蛆が潰れ、その汁を顔中に浴び、大量に発生したハエと格闘しながら、ボランティアの皆さんは、過酷な活動をして行ったのでございます。
最初は遠目で見ていた漁師さんたちですが、ボランティアの奮闘に、こう問いかけて来ました。
「お前たち何故そこまで出来る?」「見ず知らずの者の為に、どうしてそこまで頑張れる?」
その問いかけに、1人のボランティアさんは「もう1度三陸の味を食べたいのです!」「三陸の魚介類を、もう1度食べたいんです!」そう答えていました。
何もする気力もなく、只海を見ているだけの毎日だった、漁師さんの虚ろな目が、みるみる内に変貌して行くのを、自分は見逃しませんでした。
「ヨシ!わかった食わせてやる!」「必ず食わせてやるから、お前たち待ってろよ!」
海と言う大自然を相手に、命懸けで働いて来た漁師さんたちの、”男気” が蘇った瞬間でした。
それ以来漁師さんたちは、ボランティアと共に、自分たちが使う漁具を、一生懸命回収し、必ずや三陸の味を復活させて見せると、約束してくれたのでございます。
絶望の淵にあり、途方に暮れていた漁師さんたちが、ボランティアの奮闘に、”何を頑張るべき” か、見い出して行ったのでございます。
そうして故郷石巻も、復興の兆しを見せはじめた中、突如街を二分するかのような問題が出て来ました。
それは石巻の夏には欠かせない、川開き祭りの開催の是非を問うものでした。
いつまでも下を向いているばかりでは、前向きな気持ちになれない!そんな意見と、大勢の人が亡くなって、まだ半年も経ってないのに、祭りなどとは言語道断!と言う意見の、食い違いでございました。
そんな折にボランティア団体の、各面々が考えてくれたのは、二つの意見を組み入れて、1日目は亡くなられた方々を偲び、喪に伏す催しを取り入れ、もう1日目は、活気に満ちた祭りにすると言うものでした。
そして迎えた川開き祭り!
1日目の日も落ちて、辺りが暗くなりはじめた時、旧北上川の水面を覆い尽くすかのように流れて行く、もの凄い数の灯籠がありました。
その数なんと1万個!
圧倒的な数の灯籠を見て、歩くのもやっとな程集まった人々は、思い思いに故人を偲び、涙を流しながら、大切な人の灯籠を追っていたのでございます。
「役所も意気なことするねぇ」と言っていたお婆ちゃんに自分は「これはボランティアの皆さんが、大切な人を亡くしてしまった遺族の皆さんを思い、一生懸命作った灯籠なのですよ!」と、教えて上げました。
するとお婆ちゃんは、突然手で顔を覆い、「きっと孫は喜んでいる!」「きっと空から見て、大喜びしているよ!」そう言って泣きながら、灯籠を見ておりました。
そして2日目は、自分が生まれてこの方見た事がない程、大勢の人々が石巻の街を、覆い尽くしておりました。
至るところに縁日の灯りが漏れ、綿菓子や水ヨーヨー、そして美味しそうな食べ物を手にした子供たちが、無邪気に走り回っていました。
そして多くの人々が魅了されたのは、ボランティアさんたちが一生懸命瓦礫で作った神輿が、街を練り歩いた時でした。
各ボランティア団体の人たちが、威勢よく担ぐ中に、飛び入りする市民も現れ、ボランティアの皆さんと地元の人々は、一体となって瓦礫の神輿に酔いしれていました。
そして夜には、ささやかな打ち上げ花火に、下を向いてばかりいた、我々被災者の面々は、何事も無かったかのように、上を向いて花火を観れたのでございます。
そして我々石巻市民は、ボランティアの皆さんのお蔭で、亡くなられた方々を偲ぶ、大切な1日と、明日に一歩を踏み出す、生きる為の術を、頂いたのでございます。
我が故郷石巻には、大きな津波が押し寄せて、多くの瓦礫やヘドロ、そして大きな哀しみを残して行きました。
しかしそれらは、ボランティアの皆さんの、”愛と勇気と情熱” が、ものの見事に消し去ってくれました。
そしてこの地に染み込んだものは、ボランティアの皆さんの、”汗と涙と心意気” なのでございます。
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第四章 その1 に続く