「被災している人の立場と、支援する側の立場。
それぞれの気持ちを、どう折り合いをつけていくか。それが大切ですよね。」
柴田綾子(しばたあやこ)さん 宮城県出身
4/29~5/7、石巻でのボランティアに参加。
「私、宮城の出身なんです。」
現在は、東京にお住まいの綾子さんは、18歳まで宮城県大崎市で育った。お父さんのご出身は陸前高田。子どもの頃からよく遊びに行っていた。つい2年前にも訪れて、親戚みんなでお酒を飲んで楽しく集ったのだという。
「だから、とっても信じられなくて。」
陸前高田の親戚は、震災後ずっと連絡が取れなかった。3月23日、綾子さんは、やっとの思いで現地入りし、7人いた従兄弟が、1人を残してみんな帰らぬ人となったことを知った。
「毎日テレビを見ながら、泣いて泣いて、泣き暮らしていたの。」
石巻にも母方の親戚が居るが、消息がまだわかっていない。生き残った親戚は、それぞれに避難所で暮らしている。家ごと全て津波で流された、その状況を 思って、「食べるもの、着るもの、足りているかしら」と心配が続く。陸前高田に入ったときには、思いつくものを買い揃えて、持参した。靴やハンドクリー ム、基礎化粧品などが喜ばれた。次第に自分も、泣いてばかりではいられない、と思うようになっていった。
「被災者の想いと、支援者の想い。両方わかるが故の葛藤もある。」
特養デーサービスの施設に物資を届けたときのこと。配達だけで、職員や利用者の方にゆっくり会えなかった。「せっかく物資を届けに来たのだから、直接お 話を聞いて交流したかった」というメンバーも中にはいた。その気持ちはわかる。でも、自分がその施設で働いている立場だったら、ゆっくり対応できるような 状況じゃないだろうと思う。
「『手伝ってあげている』と、奢らないように気を付けています。被災している人の立場と、支援する側の立場。好奇心はもちろんあるけど、それぞれの気持ちをどう折り合いをつけていくかが大切ですよね。」
ずっと介護を仕事にしてきた。施設の責任者をやった経験もある。だからこそ、この状況下での施設職員の忙しさがよくわかる。
「どんなに大変だろうか、と思いますよ。きっとやらなきゃいけないことは山積み。本当は、そういう職員の方々が本来の仕事ができるようなお手伝いをしたいんです。お掃除するとか、どんな下働きでもいいんです。役に立てるなら。」
ピースボートの災害ボランティアの経験は、「支援をする」ということを考える機会となり、また次に自分に何ができるか、確認するための時間をくれた。
「来週は、また陸前高田に行こうと想ってます。何ができるかは、まだ模索中。これは長い活動になると思うの。」
倉庫で黙々と、しかし愛情を込めて仕分けの作業をする姿が印象的で、「インタビューさせてください。」とお声をかけました。はじめは、カメラを向けると 「もっと遠くからとってよー。」と、ちょっぴり恥ずかしそうな様子でしたが、お話を伺って心を打たれました。支援をする側と受ける側、どちらの気持ちも分 かるからこそ、一つひとつ丁寧に作業と向かい合っていたのだと分かりました。ご親戚や故郷を一気に失い、本当に辛い状況の中、一人のボランティアとして参 加されたことを考えると、涙が出ました。
インタビューの後、「私の陸前高田への思いを書いたものが、家にあるの。後で送るから、良かったら読んでね。」と。ご本人からの希望もあり、この場を借りて、後日送っていただいたメッセージもご紹介します。
毎日大変な中でのご活躍 お体はいかがですか。お風邪ひいてませんか。今回の石巻でのボランティアに参加させていただけたのも、ピースボートのおかげでした。少しでもより被災地に近い所で、何かをお手伝いしたいとの思いを 適えてくださった事へ感謝しています。沢山のピースボートの方々の石巻への支援と、ボランティアへの支援は大変なご努力の積み重ねの結果だと思いました。 また機会を見て参加させていただきたいと思っております。ありがとうございました。
どうぞ くれぐれもお体にお気をつけて、お過ごし下さいますようにと祈っています。
さて、先日は私のお話を聞いてくださって本当にありがとうございました。
父方の故郷が壊滅的な状態の中、七人ものいとこやその家族が津波に飲まれ、家を失いました。今は三か所の避難所にそれぞれが、お世話になっております。 また今回伺った石巻にすむ母方の被害状況がはっきりしていなかったのですが、一人が死亡、いとこやその子どもたちの家が津波にのみこまれていることを知り 呆然としています。
五月の一三日からそれぞれのところを訪ねる予定でおります。
沢山の方々の支援に感謝しつつ私は何をなすべきなのでしょうか。
陸前高田の被災状況を見た後に書いたものです。
被災した親族を想う気持です。泣き暮らすばかりの日々でした。
柴田 綾子(平成23年4月15日)
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ああ あわれ あわれ
いのちはぐくみし大地を
うみの青さと白い砂浜の生える陸前高田の松原を
え顔あふるるわたしたちの愛おしい人たちを
おそろしさにふるえおののく人々の目の前で
かき消し全てをつんざき飲み込んでいった
きずあとはあまりにも深く延々と広がり続く
くずれ落ちた家々と今の今までの日常をも
けちらし容赦することのない巨大地震と津波よ
この惨状に何を想い何を語れというのか
さけべど父、母、子らの声は聞こえず
しずまり返った町は瓦礫の山と化した
すべての終わりを物語るのか
せ界中から耐える東北の人々と称えられるが
それは違う、耳をすませばをちこちから すすり泣く声が聞こえる
ただただ 今は呆然と悲嘆の中にあるだけ
ちからの限りで船も家も車も人々を押し流されても
つなみの時は「いのちてんでんこ」を守らず落とした命もここにはある
てに手を取り合って逃げきろうとした人々を
とてつもない津波のエネルギーは根こそぎもいでいった
なみの力を押しのけ 流れてきた家や木にしがみつき
にげ切った人々の眼の前に見えるものは
ぬま地かとまごう泥と砂に覆われ壊された生活のあとばかり
ねむれ 眠れ 眠りたまえひと時
のみ込まれた夫や兄弟やその子らとの楽しかった時を想い
はるかかなたとなってしまった美しい高田の松原を想い
ひさしさんを、まことさんを、けい子ちゃんとその家族を想い
ふるさとの青い海と豊かな幸を
へい穏だった暮らしの日々を想い
ほしの凍てつく夜はとにかくひと時眠れ
まことさあん、ひさしさあん、けいこちゃあんと
みんなの哀しみの上に夜の帳よ降りよ
むりやりひろげることはすまい折れた心を
めが覚めた時にはそっと寄り添おう
もっともっと涙し 涙枯れ果てるまで。そして
やがて涙つき顔を上げ 踏み出す力の出るまで
ゆっくりでよい、それが何年先になろうとも
より添いともにいよう その時には 春よ来い ここにも遅い春でもよい
「よおく 来てくれたね 春よ」と言えるまで待とう
らちもないことが起きたのだ
り想の人々の暮らしはたちまちにくず折れたのだ
るい累と波間に浮かんでいるという人々の姿を
れポートする声を滂沱の涙の中で聞いていた
ろ頭に放り出した 人々の生活を返せ
わたしの愛おしい人々を返せ 美かった自然を返せ
高田の松原の植林に力を尽くした 管野木之助につながる
ひさしさんを まことさんを けい子ちゃんを その妻や夫や孫たちを返せ
ありふれた日常を返せ 幸せを返せ
をれた心に副木が欲しい 重い心に副木が欲しい
すま子さんに生きていく術を教えて欲しい
んだねぇ らつもねえごどだったねぇ もぞこがったと聞いてやってえ。
ひさしさあん まことさあん けい子ちゃあんたちが
みんなしてそっちに行ってしまったよう。
天国の父ちゃん 母ちゃんはやぐ早く探してやってぇねえ。
おっかながった話し聞いてやってえ。さむぐって寒くって
しゃっこいしゃっこい海の水いっぺえのんですとう。
あったけえお茶っこいれてやってよー。頼みすたどぅ。