千葉の今をお届けする連載企画の最終回は、台風15号が館山市に襲来した際に自宅で被災し、変わり果てた被災地の悲惨な状況と、悲しみに暮れる被災者に対して必ずしも必要としている支援が行き届いていない状況を目の当たりにしてから奮起、PBVの支援活動に加わり、さまざまな団体や地域と協力しながら主に被災家屋へのブルーシート展張などの応急対応を続けている川村勇太・美保子夫妻です。被災した経験を経たのち支援者として3年近く被災地で日常生活と並行して災害支援活動をおくるなかで感じた苦悩や想いを聞きました。
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ー2019年の台風15号の被災から2年以上が経過しましたが、正直な実感を教えてください。
まだ災害は終わっていないという実感があります。発災から2年以上が経過して一見するとブルーシートが減ってきている印象を受けるため、自宅の修繕が済んだ被災住民からは「まだ支援活動しているの?」などと言われることがあります。同じ地域に住む住民の間でも、その意識にかなりの温度差があるのだなと感じます。引続き各県市町の社会福祉協議会、行政と連携を取り、取り残されている被災者への支援にあたることに加えて、発災から現在に至るまで2年以上経過してもなお、激しく損壊した被災家屋に住み続けざるをえない被災者がいるという事実を、適切に伝えていくことが重要だと考えています。長い期間支援を続けていても、我々にできることは少しだけです。被災者がどのようにして「助け」の声をあげれば良いのか、全国の社会福祉協議会や行政にも当たり前のように知っておいてほしいですし、被災者や被災地の情報更新と整理は、随時、的確に行ってほしいと思っています。
キャプション:台風上陸翌日の館山湾(鏡ヶ浦)
―台風15号が過ぎ去ったあと、被災された皆さんはどのようなお気持ちだったのでしょうか?
被災後、自分が本当に被災していることに気がつくまでにはタイムラグがあると思います。被災直後はやらなければならないことが山のようにあり、「私は被災した」という実感をなかなか持てません。被災から少し時間が経ち、ある時ふと振り返ってみると、災害により自分がショックを受け傷ついていたことにやっと気がつきます。台風により被災したあの日、被災した全ての人が傷つきました。台風災害により負った心の傷や実際の家屋の被害を自分自身で何とかできた住民もいらっしゃいます。。ですが、自分自身の力や資金力だけでは、生活を再建できない住民がいらっしゃるのも現実です。また、被災者の状況によっては、災害支援の対応から発展し、社会保障制度などを活用した次の支援に繋げていく必要があります。そのようなケースでは、災害対応を前提として活動しているPBVの活動範囲だけでは解決できないことが往々にしてあるため、各市町および県の社会福祉協議会や行政に訴えかけ、共に考えていきたいです。
―発災から2年以上が経過するなかで感じている被災地に必要なことは何ですか?
「ここ(千葉の被災した地域)は被災地である、という状況が今でも続いているということ」と、「時間が経過すればするほど支援の必要性が希薄に感じられかねないが、被災地には今でも継続的な支援が必要だ」ということを感じ続けた2年間でした。自助として、自分たちで災害に備えることも必要ですが、「共助とは何か?」「公助とは何か?」など当事者ですら曖昧な理解になっている現状の中では、必要な支援が必要な時に必要な支援者へ行き届かないケースも発生します。必要な支援を届けるため、外部支援団体が共助の枠の中で現地で支援を続ける必要性が生まれます。
キャプション:館山市の川村家から見た被災した隣家
ーこの2年間支援を続けてこられた原動力はどういったものですか?
台風15号の上陸時、地元住民の想定をはるかに超える強風が4時間以上吹き続けました。バリバリっと大きな音と共に向かいのお宅の屋根が丸ごと剥がれ飛び、我が家の屋根を飛び越え、更に裏の空き地までも飛び越えて、後ろにあるお宅に突き刺さりました。翌日、台風一過で晴れ渡る空の下、近隣の家の屋根が突き刺さったお宅のAさんが何とも言えないとても悔しそうで悲しい表情ををしていたことを、今でも鮮明に覚えてています。Aさんは、被災直後から炎天下の中、毎日うつむきながら1人で自宅の瓦礫の撤去を続けていました。私たちは「大丈夫ですか?」と見かける度に声をかけていましたが、「大丈夫です」と返事があるだけでした。そのうち、声をかけても返事がかえってこないようになりました。、ある日、Aさんが近所のコンビニで罹災証明のための自宅の被災写真を泣きながらコピー機で印刷していて、そのときに堪えきれずにに声をかけました。あの時のAさんの表情が忘れられなくて、「何とかしないと」という想いに突き動かされました。被災してから現在まで支援を続けてこられたのは、同じ被災者としてAさんから感じた行き場のない悲しみと憤りと不安、それが原動力になっていると思います。私たちは、「被災した」からこそ被災者として意識の共有ができました。この「被災した」という特殊な状況は自分たちの声で、行動で伝え、知ってもらわなければいけないと思いました。
―実際に被災を経験してご自身の変化はありましたか?
ここ(館山)は被災地ですが、現在では自分たちから「ここは被災地だ」という地元住民は少ないです。でもここは被災地です。その温度感は発災当初から今まで変わっていないと思います。私たちも自分たちが被災する前は、どこか災害は他人事として生活をしていました。ですが、館山の台風被害は本当に甚大な自然災害でした。被災して初めて、災害は他人事ではなく自分事だと感じ、支援を続けていくという選択肢が目の前にありました。私たちも被災地で被災した被災者です。被災地で困っている人がいる限り、支援の手を止めるという選択肢はありません。家屋修繕を終えて生活再建している住民も、ボロボロのブルーシートに覆われた被災家屋に住み続けている住民も、お互いが大きな温度差を感じながらも、それぞれに苦しい被災経験という記憶を抱え生活していると思います。
ーこれからはどういったことを千葉で行って行きたいですか?
台風15号・19号は、甚大な被害をもたらしましたが、直接的に台風の犠牲者として亡くなった方はいなかったので、被災した住民は傷ついていることを外部の人に言いにくかったと思います。ですが、住民は傷ついています。今もなお、支援の手は必要です。その支援を継続していくためにも行政と社会福祉協議会と民間の3者の連携は非常に重要です。この連携を進めながら、生かされた人間としてできること、しなければいけないことをし続けていきたいと思っています。