石巻の語り部 萬代好伸さんより [第二章]

第二章  震災直後の出来事と、その後の生活

 width=

 

夜明け前の、薄っすらとした空間の中、自分は市街地の方へと歩き、街の様子を見て廻りました。

薄暗い中に聞こえるものは、水の流れる音と、人々のざわめき、そして我が家の変わり果てた姿に、啜り泣く人々の声でございました。

街角の、至るところに車が折り重なっていたり、家屋に突き刺さっていたり、中には人影が見て取れる車もありました。

街の中心部は水嵩が多く、長靴1つでは歩く事など出来ませんでした。

旧北上川の川辺には、大きなクルーザーやヨットが横転していて、所狭しと道路を塞ぎ、内海橋の袂では、大きな船が二艘程折り重なっていました。

中瀬の端に建っていた岡田劇場は、既にその姿は無く、丸い飛行船のような漫画館だけが、中瀬地区に残っていた。

そして、登る勇気が最初は無かったのだけれど、敢えて日和山に登って、その惨劇を目の当たりにして見ました。

涙で目の前が霞み、まともに街を見る事が、出来なかった・・・!

そして朝から、大声で泣き喚くより他はありませんでした。

既に携帯の電波は途絶え、日和山の周囲一体は、膝まで水嵩があり、とてもとても身動きが、取れるような状況ではありませんでした。

 

発災2日目は、只ひたすらに余震に耐え、必死に救援物資が届くのを、待つしかなかったのでございます。

 

そして3日目の朝、1人の男性が避難場所となっていた、法務局に来ました。

その身体は全身ずぶ濡れで、急ぎホワイトボードに書かれた避難者名を、食い入るように一文字一文字、確かめていました。

聞けば女川から一睡もせず、只ひたすら歩き続けて来たと言います。

日和山に登り、自宅があった南浜町を見たら、何も無かった・・・、自分の家どころか街が無かったと話してました。

家族の安否が心配で、必死に歩いたと言います。

必死に眼を凝らし、ホワイトボードを見ていたのですが、家族の名が無いと知るや、膝からその場に崩れていました。

しかし、彼はスッと立ち上がり、「必ず生きている!」と、大声で叫び、その場を後にしていました。

彼の話しを聞く所によると、内海橋を塞いでいた、二艘の重なっていた船は、何とかガードフェンスのようなもので梯子を作り、時間を掛けて乗り越えて来たようでした。

その話しを聞いて自分も、子供たちが避難している湊小学校の方へ、行ってみようと決心しました。

当日のメールのやり取りで、避難して無事でいる事は知っていますが、やはり心配で早く会いたいと思いました。

内海橋に横たわっていた二艘の船は、大人の男性がようやく乗り越えられる仕掛けで、まだ子供や女性の人では無理な状況でした。

瓦礫を片付けながら、水のある所を回避し、幾度も後戻りをしながら、やっとの思いで湊小学校に着きました。

普通に日和山から、歩いて20分から30分程度の道のりを、4時間半掛けてたどり着きました。

湊小学校では1階部分がまるっきり水に浸かり、入って来たヘドロを、踏みながら2階に上がっていたので、廊下はどろどろの状態でした。

そして何より驚いたのは、造船場から流出した船が、大暴れしていた湊地区に、これだけの人が生きていたのか??と思う位、避難していた人々で、溢れ返っていた事です。

人の間を縫い、急ぎ子供たちを探し、名が書かれた教室に入り、長女の姿を見た時は・・・、安堵しました・・・、心の底から安堵しました。

名を呼ぶと、自分の姿を見て、何も言わずに抱きついて来ました。

無事なのはわかっていました。

生きている事はわかっていました。

しかし、顔を見た途端、涙が溢れて止まりませんでした。

次男の姿が無かったので、「どうした??」と聞いたら、「屋上で自衛隊さんが運んでくれた、支援物資を仕分けしてるよ!」との事。

次男は今現在に於いて、自衛隊さんとのこの活動があったから、自衛官の道に進んだのだと思います。

 

子供たちとの会話もそこそこに、自分はどうしても行きたい所が出来ました。

それは、両親が避難しているであろうと思われる、湊中学校でございます。

日和山から見た湊地区は、大きな船が右往左往していて、犠牲者が多いだろうと、予測していたのですが、避難先である湊小学校には、大勢の人々が避難していました。

その光景を見て、もしかしたら両親も、生きて湊中学校に避難しているのではないか??そう考えたら、どうしても安否を確認したく、湊中学校に行く事を決心したのでございます。

しかしその矢先、避難していた中学の同級生が、「萬ちゃん!湊中学校付近は、胸の辺りまで水があるぞ!」「水が引いてから行った方がいい!」そう進言されたのですが、一度行きたいと思った心を、抑える事は出来ませんでした。

ずぶ濡れ覚悟で湊小学校を後にし、少しでも水の無い所無い所と、瓦礫の山を縫うように足を進めて行きました。

すると壊れた家屋の屋根に、挟まった形で、足が見えているのに・・・、気付いたのですが・・・、見て見ぬふり・・・、どうする事も出来ない自分が、そこにいました。

心の中で「ごめんねぇ!」と叫びながら、その場を後にしました。

それから歩みを進める程に、見て取れる手や足・・・!

何もしてやれない自分の無力さに、悔し涙が止まりませんでした。

進むごとに水嵩が増し、言われた通り、湊中学校付近は胸まで水があり、歩みを運ぶ足で瓦礫を探りながら、進んで行きました。

すると、自分の前に流れて来たのは、うつ伏せになった亡骸が・・・!

生きていたら苦しかろうに・・・!

上空で旋回するカラスを、怨めしく見ながら、うつ伏せの亡骸を仰向けに・・・!

この世に未練があるのでしょうか??開き眼を閉じようとも閉じんのです・・・!

取り急ぎ、壊れた家屋の屋根からトタンを剥がし、亡骸に掛けてやるしかありませんでした。

毛布や布団と言った、暖かいものを掛けてやれば良いのでしょうが、そんなものあるはずもありません!

なれどトタンなどとは・・・!

やはり心で「ごめんねぇ!」と、謝るしかありませんでした。

そして更にはもう一体・・・!

その御遺体が背負っていたのは・・・、ランドセルでございました。

何故にこの子が・・・、何故にこんな事に・・・!

この先楽しいはずの、青春が待っているだろうに・・・!

この先素晴らしい人生が、待っていただろうに・・・!

この子ら、数日前まで生きていたんだよなぁ・・・!

みんな楽しく生きていたんだよなぁ・・・!

そう考えたら、大声で泣き叫ぶしかなかったのでございます。

それ以来自分は、災害を怨むようになりました。

尊い人の命を、簡単に奪い去って行く自然災害を、憎むようになりました!!!

 

やっとの思いで着いた湊中学校。

ずぶ濡れのまま体育館に入り、避難者名が書かれた掲示板に眼を凝らし、見慣れた文字が書いてあった時は・・・、安心しました。

掲示板の前に座り込んで、どれ程の時が過ぎたか、わからぬままに、名が記された教室に行きました。

中に入り、両親と顔を合わせた時、親父から発せられた第一声は「おう!生きていたか!」「津波注意報が出ても逃げぬ奴が、よくぞ生きておったなぁ!」「津波が来た時から、お前の生存を諦めておったわ!」と、怒鳴られました。

自分が諦めていた両親に、諦められていた事に、改めて自然災害の恐ろしさを、感じた次第でございました。

実は発災2日前の3月9日、石巻地方は震度5強の揺れを観測していました。

勿論津波注意報も発令になり、防災広報も警戒を唱えていました。

しかしその時、自分は職場のテレビで、津波の警戒をするだけでありました。

そのテレビの報道では、若干の潮位の変動はあるだろうとの事だった。

実際に牡鹿半島の鮎川では、若干の潮位変動が観測されたと聞きます。

その9日の夜、親父から来た電話は「お前!今日はどこに逃げた?」と、意味不明なものでした。

自分が返答したのは「逃げる??」「何で??」「何で逃げなきゃならんの??」と、訳も分からぬ問いに答えていました。

「ふぅ~ん」と言ったまま、親父は電話を切りました。

後に聞いた事ですが、親父はいずれ会った時にでも、叱り付けてやろうと思っていたそうです。「子を持つ親の身で在りながら、津波注意報が発令になっても、逃げない奴が何処にいる!」と!!!

うちの親父言わく、3月11日は余震で、2日前の9日が本震だと言います。

もしかしたら、9日の揺れが無かったら、こんなにも犠牲を払う事が、無かったのではないか??と思うのでございます。

この震災の悲劇は、2日前から始まっていたのだと思うのでございます。

その後の生活は、正にサバイバルでありました。

職場の様子さえ知らず、世の中がどうなっているかさえも、全く知るよしも無かったのでございます。

通信が途絶え、移動するにもガソリンが無く、歩いて用達しするしか無かったのでございます。

親類縁者、友人知人と、誰が生きていて、誰が死んだのか・・・!

分かる術は、歩いて確認するしか無かったのでございます。

 

======

第三章 その1 に続く