石巻の語り部 萬代好伸さんより [第一章]

東日本大震災から3年の月日が経ちました。
犠牲になった多くの命に改めて哀悼の意を捧げますとともに、被災されたすべての皆様に心よりお見舞い申し上げます。

本日は、石巻在住の萬代好伸さんから寄稿していただいた言葉をご紹介します。
PBVで活動した3年間を振り返ることも考えましたが、最も後世に引き継いでいくべきは、当事者たちの体験だと思い直しました。萬代さんには、私たちも、ボランティアへの語り部として、ともに災害支援を行う仲間として、ずっとお世話になってきました。

震災当日の体験から、4章に分けて掲載させていただきます。

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2014年3月11日、世界中を震撼させ、日本列島に衝撃を与え、我々東北地方太平洋沿岸に住む者を、ドン底に突き落とした東日本大震災発生から、3年と言う月日が流れました。

我々被災者にとって、この3年の時の流れ・・・、短いようで長くもあり、長いようで短くもありました。

あの震災・・・、ついこの間のように思えたり、出会った人々の多さに、10年の時が過ぎたような感もあります。

この3年と言う節目に際し、東日本大震災が、我々にどのように影響を与えたのか??

そして何を教訓として残しているのか??を、当日の出来事と、その後の避難生活や、ボランティアの皆さんと一緒に行った、復興活動の中から、自分が見たもの聞いたもの、そして感じた事等を、もう一度考え検証し、自分なりに綴ってみようと思います。

 

 

第一章  3月11日当日

2011年3月11日14時46分「あれ??揺れているのか・・・??」そう思える位に、最初は小さな揺れでございました。

チップ製造会社に勤める自分は、職場で同僚と機械修理の、段取り打ち合わせ等をしていたところ、みるみる内にその揺れは大きくなり、工場建屋の梁や柱が軋み出して来ました。

とても長く感じた揺れが、どうにか小さくなって来たので、急ぎ外の広場に退避し、治まるところを待ちましたが、治まるどころかまた大きく揺れはじめ、遂には稼働していたプラントが、停電により停止してしまったのでございます。

再び治まり掛けたのですが、なかなか完全には治まらず、小さな揺れが長く続く中、三たび大きな揺れが襲い掛かって来ました。

小さな揺れを感じた時から、時計を見ていた自分は、今まで経験した事のない揺れと、余りにも長い揺れに、驚きと恐怖、そして只ならぬ予感を感じたのでございます。

延べにして実に5分40秒もの間、揺れは続けておりました。

後に気象庁が発表するところによると、石巻地方は震度6弱の揺れを、5分の間に3回程観測したと伝えています。

余りの長さの揺れに、動揺を隠せない同僚は、即座に「家族が心配だ!」「家に帰らせてくれ!」と、会社の上司に帰宅の許可を求めていました。

チップの原料となる廃材等が、大きな揺れにより倒壊してしまいましたが、明日にでも片付ければいいさと、会社の上司は、直ぐさま帰宅命令を出したのでございます。

気付けば市内全域に、けたたましいサイレンが鳴り響き、防災広報は大津波警報の発令を告げておりました。

自分も幾度となく家族に電話するのですが、どうしても繋がりません。

家族の安否を心配しつつ、帰宅の路につく車の中で、耳にするラジオの第一報は「女川で津波の第一波観測!」「波の高さは50㎝」「最大に予想される波高は、6mに達するでしょう」との報道でした。

この時点で、気象庁発表のマグニチュードは8.3で、後に改正されたマグニチュードは9となります。

停電により信号機が消え、至るところ大渋滞でしたが、何とか縫うように渋滞を切り抜け、走る車の中では、絶えず余震を感じながら、ラジオに耳を傾けていました。

防災広報が、頻りに高台避難を告げる中、自分はラジオが報道した、女川の最大予想波高6mに対して、石巻はせいぜい来ても2m位だろうと、走る車の中で予測を立てていました。

何故に2mなのか??

その根拠は、先人の方々が、以前におきた津波災害の際に、石巻の波高は、女川の波高の3分の1程度だったと、話していたのを聞いていた・・・、只それだけの根拠でしかありませんでした。

2m位の波高だったら、せいぜい道路に冠水する程度と、安易に予測してしまったのでございます。

その予測が後に、恐怖のドン底に陥る事になろうとは、思いもしませんでした。

頻りに避難を訴える防災広報を聞きながら、せっかく登った帰宅ルートの日和山を、何の躊躇もなく、下ってしまったのでございます。

 

市街地に入り、旧北上川の川岸を、真正面に見る交差点に差し掛かった時・・・、突如それは現れました。

視界に入るビルの、2階付近の窓位に競り上がった川水は、真っ黒な壁と化し、一気に襲い掛かって来ました。

「あっ!」と思った瞬間、自分の左手は、車のギアをバックに入れていました。

そして瞬時に振り返り、後方に車が居ないと知るや、力一杯右足も、アクセルを踏み込んでいたのでございます。

自分の前を走行していた車は、交差点を左折しかけていたのですが、異変に気付き、車を乗り捨てて、身体のみで走り、バックで退避する自分の車と、まるで競争するかのような状態でありました。

間一髪で、二人とも高い所に逃げ切り、車を安全な場所に置いた自分は、ぐんぐんと水嵩を増し、市街地の方へ流れて行く津波の、水際まで下がって見ました。

走って退避した、前の車のドライバーさんと、顔を見合わせながら「何なのこれ??」「いったい何が起きたの??」「マジかよ!!」と、その現実を、その場では到底受け入れる事が出来ませんでした。

目の前を流れる濁流に、数多くの車があれよあれよと言う間に、流されて行く光景を、只呆然と見ているしかなかったのでございます。

そんな中に、人の気配が感じさせる車が偶然にも、本当に偶然にも山側のウインドウが開いていて、助けを求めながらそこから手を伸ばしていました。

思わず自分は、思い切りその手を引っ張り、着ていた服を引きちぎれる位に、掴み上げました。

無我夢中で引き摺り出したドライバーさん・・・、今となってはその人が、男だったのか女だったのか??若かったのか年を召されていたのか、覚えていないのでございます。

それ程突然の出来事で、夢中になっていたのでしょう。

 

その後その場に響き渡ったのは、塩水に浸かった車から、一斉に鳴り出した、クラクションの音でありました。

それがまるで、車の中から助けを呼ぶ声に聞こえ、1台1台目を凝らして、見てはみたものの、自分の力でどうなるものではありませんでした。

これは一大事と、事の重大さを、目の前を流れて行く車に、はじめて感じたのでございました。

自分が住む吉野町や、両親が居る大門町が一望出来る、日和山に無我夢中で駆け上がり、故郷を眼下にした時・・・、「何だよこれは!!」と、叫びながら、膝から崩れ陥る自分が、そこに居ました。

日和山から見た光景は、南浜地区を蹂躙した津波が、柔な木造建の住宅を、日和山の麓に押し付け、各家庭で使われていたプロパンガスのボンベが、1ヵ所に打ち寄せられて引火、門脇小学校が火の海と化し、日本製紙石巻工場の化学薬品庫が大爆発、故郷の湊地区を見れば、至るところから火の手が上がり、造船場から流出した船が、所狭しと右往左往しておりました。

そんな湊地区を見た時・・・、年老いた両親の生存・・・、諦めました。

こんな状況下での生存・・・、諦めました。

故郷石巻は、瞬時にして地獄絵図と化し、この日和山に避難した者しか、生きていないのではないかと、思える位に破壊されていました。

自宅の2階に避難していた人々は、家屋がそのまま流され、逃げ場を失い、壊れた屋根の上に乗って、両手を大きく振り、腹の底から絞り出すような声で、「助けてくれ!」と、叫んでおりました。

更には、水面上に顔を出し、梁や柱に必死にしがみつき、涙を流しながら、目の前を流れて行った、若い女性もおりました。

その方々の背後には、黒い壁が押し迫り、最後の声を出し、そして最後の涙を浮かべながら、黒い波間に消えて行ったのでございます。

そして更に、沖の方からは、次の黒い壁が押し迫って来ていたのでございます。

一度引いた津波の後には、やっとの思いで波間から逃れた人々が、「寒い!寒い!寒いよぉ!」と、唇を紫色に染めて、震えて居ました。

その人々の元には、「凍えて死んでしまえ!」と言わんばかりに、空から白い雪が舞い降りていたのでございます。

自分は、その光景に思わず「何だよ神様!」「何もここまでする事ないじゃないか!」と、天に向かって叫んで居ました。

「何もここまで・・・、何もここまでと」

 

遣り切れない思いで、自分が目指したのは、家内が勤めていた、日和山の頂上付近にある法務局でした。

地震直後からのメールのやり取りで、家族の無事は確認しておりました。

公共の建物ともあり、多くの人々が法務局に避難しておりましたが、中でもお年寄りや子供たちは、不安と恐怖に怯え、身体を震わせていたのを覚えています。

局内には、飲料水や乾パンと言った、非常食の貯蓄もありましたが、到底人数分の数があるはずがありません。

暗黙の了解で、子供たちとお年寄りの方々に、優先して配られました。

我々大人の者たちは、その後救援物資が届くまで、食べ物を口にする事はありませんでした。

しかしその日、降り積もった雪は、津波からやっとの思いで這い上がった人々には、無情の雪だったのかも知れませんが、我々にとっては、恵みの雪だったのでしょうか??喉の乾きを潤す事が出来ました。

辺りも暗くなり、停電下の石巻地方は、鎮火する当てのない火の手が、頻繁に起きる余震の中、夜空を焦がし続けていました。

火の手が、いつ法務局に迫るやも知れない中、自分たちが置かれた状況を知るのは、ラジオばかりでございました。

地元のラジオ局のFM放送は、発電機で電源を確保していた様子でありましたが、発電機を回すガソリンが切れた為、放送休止を余儀なくされていました。

公共放送では、気仙沼に於いて、湾内が大規模な火災に見舞われていると伝え、女川に於いては、行政機関と連絡が取れず、街はほぼ壊滅的と、報じていました。

更には、名取市閖上地区に於いて、浜辺に相当数の遺体が、打ち上げられていると・・・!

幾度となく起こる余震、迫り来る火の手、哀しみと不安と恐怖に、身体を震わせながら、一睡もせずに過ごしました。

そして我々に、壮絶な哀しみと絶望を残し、3月11日の夜は明けて行ったのでございます。

 

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第二章 に続く