ピースボートスタッフの上島安裕(29歳)は、この2ヶ月間、2000人近く派遣されてきたピースボートのボランティアをコーディネートしてきました。 震災が起きた直後から宮城県・石巻市に入って奮闘してきた彼が見た、被災地の状況やボランティアの動きはどのようなものだったでしょうか。そして今後どれ ほどボランティアが必要とされているのかについて聞きました。
「ゴールデンウィークを過ぎてボランティアはまったく足りていません。短期でもよいので現場に足を運んでもらいたいと思います」
上島は、開口一番そう語りました。彼が伝えたいのは、「不要論」も噂されるボランティアが石巻でどれほど役に立っているのか、そしてこれからも切実に必要とされているということでした。話は、彼が被災地に入ったときの状況からはじまります。
上島たちがバンを運転して石巻に入ったのは3月17日の夜のことです。当初は地元のボランティアセンターを通して、東京から調達した水と毛布を配ろうとしました。しかし市役所の職員や事務所も被災していたので、ほとんど機能していませんでした。
「物資をどこに持って行ったらいいか訪ねに行った石巻市役所はヘドロだらけでした。それでも避難所になっていましたから、受付の隣で被災者の方が寝ていた りするんです。大変な状況でした。一応物資を置いてある倉庫があるとのことなので、そこに持ってきたものを届けようとしたんです。ところがその場所に行っ てみると、水や食料、紙おむつなどの支援物資はそれなりに置かれているものの、配る体制が全くできていないので、被災者に届いていませんでした。そこで社 協と協力して、僕たちがニーズを調べ、避難所を探してとにかく配ることからはじめたんです」
「当初はどこに人々が避難していて、何が必要かも誰もわからない状況でした。なにしろラジオもない、携帯も固定電話も通じない、ガソリンもない、そして道路も市の半分くらい通れないという状況でしたから」
新潟の震災支援をしてきた上島にとっても、想像を絶する厳しい状況だったと言います。
そのためしばらくは避難所や困っている人を捜して物資を配布しながら、情報を集めてまわりました。
一方で、ボランティアの受け入れ態勢を整えていきました。ピースボートが長期で関わることを伝えると、社協の担当者は大歓迎してくれたと言います。市と石 巻専修大学は協力して、大学をボランティアの拠点とすることや、野球部の室内練習場を倉庫にすることが決められました。そして3月末からは1週間交代で、 ボランティアの受け入れを開始しました。第一陣は34名です。そこからボランティアを中心とする大規模な炊き出しが可能になりました。
「3月いっぱいかけて取り組んだのは、とにかく人々が明日の命をつなぐために何ができるかということでした。寒さに凍えながら孤立した避難所で食料も届か ないようなところもたくさんありましたから。もちろんボランティアがやって来て以降は格段にできることが増えました。他の団体とともに炊き出しをしたり、 社協から物資の配布や倉庫の管理も任されるようになりました。ピースボートに一番たくさんボランティアがいるので、自然にそうなってきたんでしょう」
ボランティアコーディネーターが語る(2)
ボランティアコーディネーターが語る(3)