2021年8月豪雨災害【インタビュー・一期一会 ⑤】「水害がくるこの町で生きること」~中島地区住民さん・川崎千里(かわさき・ちさと)さん~

佐賀県大町町での出会いのインタビューシリーズ第5弾は、大町町の中島地区にお住いの川崎千里さんです。広いお庭の手入れやお家の掃除を毎日頑張っているすてきな女性です。

生まれも育ちも大町町の川崎さん。結婚をきっかけに福岡県などで仕事をしていました。50歳を過ぎたころ、家の跡取りだった弟が亡くなり、高齢の母が1人になってしまったことをきっかけに、30年ぶりに大町町に帰ってきました。母を福岡県の自宅に呼ぶことも考えましたが、「母には住み慣れた場所で余生を送ってほしい」という気持ちから、戻ってきました。久しぶりに大町町で生活をしてみると交通の不便さに驚いたそうです。30年ぶりに車を運転するべく教習所に通い直し、高齢の母でも住みやすい家にしようと、昔ながらのかやぶき屋根のお家から、今のお家に建て直しました。

2年前の水害では床上数センチの浸水被害に遭いました。毎年、降り続く雨が心配で、今年の7月から防災グッズの準備に取り掛かりました。町役場から、水害に備えるためのビデオ教材をもらっていたので、それを参考に準備をすすめ、できるだけ荷物を2階に移していました。普段はタンスなど下の段も活用していますが、前回の水害をきっかけに、夏場は下の段には物をいれないという工夫も行っています。

そして迎えた8月。13日の夕方に六角川の決壊警報が鳴り、このままだと車も浸水してしまうと考え、早めに車で避難をしました。当時お友達には「避難するのはまだ早いんじゃない?」と言われましたが、自分の判断は正しかったと思っています。「2年前は2階に避難していて、気づいたら海のようになっていた。その後ボートで救助されたから、今回は早めに避難した」と仰っていました。

家の中のいろいろな物を上の階に上げていましたが、今回は床上60センチ程度浸かってしまい、重たくて移動することができなかった棚などは、処分するほかなくなってしまいました。ですが仏壇などの大切な物は、2階にあげていたおかげで浸水せずに済みました。避難所に4日間程度いましたが、神奈川から親戚が手伝いにきてくれたこともあり、その後は自宅で生活をしています。

16日からようやく水が引き始め、家の掃除を始めました。何度床を拭いても石膏ボードの白い粉が床に残り、それが取れるまで何度も何度もふき取りをしました。翌月9月6日から10日までは罹災証明の手続きも重なり、精神的にも肉体的にも一番しんどかったそうです。「忙しすぎてこの1ヶ月のことはほとんど覚えていない」と語るほど、お家の復旧に努めてきました。

 

2年前に被災して新しくリフォームしたドアは、ほとんど全てを取り替えなくてはいけなくなりました。システムキッチンは棚が水を吸って膨れ、収納できなくなってしまい、備え付けの食洗器は壊れてしましました。「ここに住む限り水害は当たり前のように起こると思う」と川崎さんは感じています。ドアなどは必要な扉以外、アコーデオンカーテンやレースカーテンに変えるそうです。棚と食洗器は諦めて、まだ使えそうなシステムキッチンのコンロはそのまま使う決断をしました。

 

川崎さんが幼少期の頃、炭鉱として栄えていた大町町にはたくさんの子どもがいました。その頃の繋がりでご近所にはお友達もたくさんいるそうで、今回の災害でもお互いに声を掛け合って乗り切ろうとしています。先祖代々受け継がれてきた土地に立つお家は手放しがたく、「住める限りここで生きていこうと決めた。それを決めたら少し落ち着いた」と仰っていました。

住むことを決めると、「じゃあ水害が多発するこの町でどうやって住み続けられるか」を考えるようになりました。なるべく簡素な暮らしをしながら、水害の多い町とどううまく付き合っていけるのかをコツコツ考えていくそうです。しかし、いずれ年を取り、そういう暮らしも出来なくなってしまう時がきます。そのときは潔く諦め、自分自身でけじめを付けていくことが重要だと決意を固めていました。ご自身を奮い立たせ、長い復旧・復興までの生活を一歩ずつ踏みしめて進んでいます。