2011年11月11日~13日、福島大学のキャンパスをメイン会場に、「ふくしま会議」が行われました。震災と原発事故から8ケ月、福島の人々がいま聞きたい話を聞き、語りたいことを語ろうと、意見や立場の違いを越えて多くの人が集まりました。
海外からの専門家や全国からの支援団体関係者、そして中継用に準備されたカメラの数を見れば、この会議がどれだけ注目されているのかが分かります。被災三県の中でも、福島の被害の難しさは、一口に復旧・復興を目指そうと言っても、それぞれが望む姿が別々だということ。
郡山出身で、震災当時も実家にいた僕にとっても、ふくしまがこの先どこを目指せばいいのか、正直その答えは今も分かりません。特に普段は東京で石巻市での災害支援の手伝いに奔走するなか、とにかく地元福島の人がどんな気持ちでいるのか、ひとつでも多くその声を知りたいというのが僕が会議に参加したいと思った理由だったのかもしれません。
11日の13時半、開会イベントが行われた300人収容の大講堂はほぼ満席。この8ケ月で経験したことを口にする時、多くの人の目は潤み、声が震えていました。一人ひとりに子どもや家族、大切な人がいて、先の見えない不安とずっと闘っていることの表れかもしれません。会も終了時間に近づいたとき、一人の男性が手を挙げました。
「私は酪農家です」。作業着姿のまま檀上に上がり、浪江町で飼っている300頭の牛のことを話し始めました。彼の話で知ったのは、警戒区域で世話を続けることができず、すでに相当数の牛が餓死したこと、仲間たちからも殺処分を突き付けられ、住民同士が引き裂かれていることなど、コミュニティが分断されていく現実でした。以前のように酪農で食っていくことができなくても、この事故の悲惨さを語り継ぐためでもいいから、牛たちと生きていきたい、という彼の言葉に会場は大きな拍手に包まれました。
12日は、「若もの会議」に出席しました。同世代の人たちが何を考えているのか、一番気になっていました。受付のお手伝いをしながら感じたのは「会議全体に、意外に若者が少ないな」ということ。それでも、県外のNGO、NPOなども集まってきて、それぞれが何かしらのふくしまへのアイデンティティを持っていました。
「若もの会議」のコンセプトは「ふりかえる、ふれあう、ふみだす」。会津、中通り、浜通り、県外という住んでいる地域や関わりの深い地域に分かれ、自己紹介をしながらグループを作っていきます。話し合いは、震災が起きてからの各自の体験をポストイットに書き出し、大きな紙に張り付けていくという「ふりかえる」ことから始まりました。各グループの紙をゆっくりと見て周り、またグループを変えて話し合う。そうやって、多くの人の想いや現実と「ふれあう」ことができました。
今までずっと溜め込んでいた気持ちを、文字にし口にする中で、抑えきれず泣き出してしまう学生もいました。逆に、多くの人に、海外の人にも、この現実を知ってもらいたいと強い意志を持った若者もいました。
会議も終盤に差し掛かった頃、会場にやってきたのは細野大臣(内閣府特命担当大臣)。問題に真摯に取り組む姿勢を表明するも、会場からは強い口調で批難する声もあがります。それでも、声を荒げるのがこの会議の目的ではなく、これから何ができるかを一人ひとり考えようという発言に、再び「聞く」空気が会場に戻ってきました。
僕が「ふくしま会議」の開催が本当に意味があったと思うのは、こういったところです。自分の意見だけで復興の姿を考えるのではなく、会場まで足を運び、本気でこれからのふくしまの未来を考える人たちの意見も知りながら「ふみだす」先を考えることができました。「貴重な体験でした」に終わらないよう、自分なりの成果を持ち帰りたいと思っています。
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