高野桜さん、帰国報告会レポート

「この2年半ずっと、たくさんの疑問を抱えてきました」

11月13日、世界へふくしまの現状を伝える「フクシマ・アウェアネス・キャンペーン」に参加した高野桜さんが話してくれた正直な気持ちです。高野さんは、この日、毎週水曜日の夜に行うピースボート勉強会に、郡山から駆けつけてくれました。

 

高野さんの実家は、福島県南相馬市小高区。東京電力・福島第一原発から15kmに位置しています。東日本大震災で原発事故が起こり、防災無線から聞こえてきたのは「北に逃げてください」という漠然としたアナウンス。「テレビでは『人体に影響はない』と言いながら、なぜ避難が必要なのか意味が分からなかった」当時を振り返ってくれました。

地震後の高野さんの家の中(写真:本人提供)

 

当時通っていたのは、原発から20km圏内にある小高工業高校。進入禁止となり、別の場所に避難した家族とも離れ、一人で郡山にある工業高校に間借りする形のサテライト校舎での授業です。一人暮らしになっても福島県内の高校で学びたかったのは、「小高工業高校の生徒として、卒業したかったから」。

小高工業高校の友達は、それぞれ転校を決めたり、連絡すればするほど寂しさが募り、次第に自分から連絡できなくなっていきました。サテライト校舎で学びながら、新しいクラスメイトに同情されるのが嫌で、一人暮らしをずっと隠していました。以前は、お母さんが作ってくれて、毎日「中身は何だろう?」と楽しみに空けていたお弁当。自分で作るようになったお弁当は、もう中身も分かっていて、そんな小さな楽しみさえ奪われてしまいました。毎日、涙を流していたそうです。


サテライト校舎での風景。体育館が仕切られた教室は、隣の声も筒抜け(写真:本人提供)

 

そんな彼女は、ある日、勇気を振り絞って、一人の子に事故当時のこと、いまの自分の暮らしについて喋りかけました。予想に反して、返ってきた答えは「今まで気づいてあげられなくてゴメンね」というあたたかい言葉。ようやく、休み時間や日曜日に話したり、遊んだりする友達ができました。このことをきっかけに、彼女は自分の体験を人に話す決断をします。

 

高校生平和大使」に選ばれたのは、昨年のこと。二度と原爆による恐ろしい歴史を繰り返さないために、長崎が中心に進めてきた活動です。高野さんは、福島の原発事故の体験を世界に伝える最初の1人となりました。3月11日のブラジル。証言した後に見たのは、脱原発のために署名運動をしているブラジルの人たちの姿でした。「日本が率先してやることなんじゃないの?」素朴な疑問が頭をよぎりました。


ブラジルでの脱原発署名活動の様子(写真:本人提供)

 

ピースボート地球大学」に一部同行する形で行ったヨーロッパでのスタディーツアーと証言会。福島での事故を受けて脱原発を決めたドイツでは、その象徴として計画が中止になった原発が遊園地に、国会議事堂の電力がすべて自然エネルギーで動いている様子を学びました。現在は、大学生になって電気やエネルギーの勉強をしている高野さんにとっても関係が深く、刺激を受けたテーマでした。


ドイツのカルカー遊園地。後ろに見えるのは、一度も稼動しなかった原子炉。

 

同じく脱原発を進めるイタリアでは、「私たちは日本の事故を受けて脱原発を決めたのに、なぜ日本が先にそうしないの?」と聞かれ、「一般の人たちの多くは反対だと思うんだけど・・・」と答えたものの、それ以上の言葉が見つかりませんでした。福島を訪れた同年代の子たちのほとんどが、街なかに立つ放射線量を計測するモニタリングポストを「太陽光での発電量でしょ」と言ってしまう自分とのギャップも知っていたからです。

 

震災から2年半、彼女はたくさんの疑問を抱え続けてきました。その中で見つけた答えのひとつが、「二度と同じ想いや苦しみを味わって欲しくない。だから、その経験を知る自分自身が伝えていくこと」です。

 

「忘れないで。風化させないで。私たちは、まだ毎日闘っています」

 

震災前の高野さんの夢は、東京電力で働くことだったそうです。日本の経済を支えるエネルギーを作っていて、それが地元にあって誇りだったそうです。その夢は、今は変わりました。母校で先生になるのが新しくチャレンジする夢です。震災後の大変なときにずっと励まして、寄り添ってくれた先生の姿がそう思い直すきっかけでした。

「現在通っている大学は、その憧れの先生が学んだ学校です」

と、最後に笑顔で語ってくれました。


桜さん、ありがとうございました。そして、これからもよろしくね。

 

 

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