「語り部」について

おりづるプロジェクト」、正式には「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」と言います。地球一周の船旅をコーディネートするNGOピースボートが、2008年に本格的にプロジェクトを立ち上げたのは、二度とあんな悲惨な歴史を繰り返さないため。広島・長崎のヒバクシャは、一般参加者とともに世界各国を巡り、訪れる国で当時の体験談を語ります。


2012年1月24日、「おりづるプロジェクト」出航前の横浜・大さん橋埠頭にて。

 

現在、東北では防災・減災のために震災体験を伝える「語り部」が注目されていますが、「おりづるプロジェクト」で各国で証言を行うのは、その核兵器・放射能による被害体験の「語り部」です。2011年以降は、日本政府から「非核特使」として委嘱された方もたくさんいらっしゃいます。プロジェクト設立の契機は「世界がヒバクシャの生の声を聞きたがっているから」。そして、それに応えるのは直接の被爆国・日本の役目だと感じているからです。


2012年4月、シンガポールではヒバクシャの体験談を聞くため300人以上の高校生が集まった。

 

今年4月、おりづるプロジェクトに参加したメンバーはチェルノブイリを訪れました。「福島子どもプロジェクト」の呼びかけ人でもある鎌田實さんが理事長も務める、NPO法人日本チェルノブイリ連帯基金のご協力により実現しました。
ウクライナの首都キエフの博物館や退去区域となったプリチャピ市、国境を越えたベラルーシ・ベトカ地区にある病院などを訪れ、事故当時のこと、現在も続く困難について住民の方々からお話を聞くとともに、ヒロシマ・ナガサキでの体験を伝えました。

●詳しい報告は コチラ


2012年4月、後ろに見えるのが事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉。

 

また、昨年夏の「福島子どもプロジェクト」の期間中にも、広島の被爆者である中村紘さんが乗船しており、体験談を伝えるとともに、子どもたちのよき相談相手になってくださいました。


2011年7月、南相馬の子どもたちに体験談を語る中村紘さん。

 

僕自身が、証言をするヒバクシャの方々から一番学んだのは、「語れなかった時間」について。思い出すのが辛い、終戦後の占領下にあった日本で報道規制が敷かれたなどの理由もありますが、それよりも「同じ日本人からの差別が怖かった」という言葉をたくさん聞きました。何十年の口を閉ざしていた方が言ったのは「自分が証言を始めたのは、70歳を越えて自分の寿命を感じるようになった時。辛い体験を思い出す作業だけど、残された時間の中で、次の世代、ほかの国の人のために自分ができるのは『伝えること』だと思ったから」。

 

 
辛い過去の体験を証言するのは、話す側にとっても、聞く側にとっても受け入れる覚悟が必要だと思います。ヒロシマ・ナガサキは語られない時間の中で、補償や対応が遅れていきました。頭の中で、福島のこれからと重なります。補償や対応が、これ以上遅れるのは嫌です。震災や原発事故の被害を直接受けていない僕たちにできることは、まず「聞く側」の覚悟を持つ、という一歩目を踏み出すことなのかもしれません。そうすることで、次の二歩目は「語り部」の方々と一緒に歩めるになりたいと思っています。

 

 

blog written by SHIGE
photo by Kazushi Kataoka

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